文学論と「文学論」論

『存在と失われた時間
〜 プルーストの哲学的文学論 および「失われた時を求めて」概図』序文より



 
河上 雅哉




一つの文章が「文学」とよばれるためには、次の三つの要素が必要条件である、と私は考える。

1・詩的要素
2・哲学的要素
3・エンターティメントの要素

この、三つである。


まず「詩的要素」であるが、これは文章自体が読者の感性を刺激するものである-という要素である。たとえばその文章が「文学」とは対蹠的な「実用的文章」であれば、それが伝えんとする感覚-たとえばある料理のおいしさ-をいかに読者の想像力に伝えるかということこそが重要なわけであるが、「文学」においては、いかに味を伝えるかではなく、いかにそれ自体を味合わせるかということが重要なのである。つまり、簡単に言えば「五時ごろに奈良でかきを食べていると法隆寺の鐘が鳴った」ではなく「かき食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」-なのである。
 そいうった、文章自体が美的感性の対象であるものの代表が詩なのであり、まず「文学」はこの要素を満たしていなければならない。


次に「哲学的要素」、それは新しいものの見方を読者に提示することによって、諸事象へのより深い洞察の可能性を開く-という要素である。
哲学というのは人間の言語活動においてもっとも重要なものである。なぜなら、一般 に人間を人間たらしめているといわれる「言語」が、人間を人間たらしめているのは意志の疎通 を可能にしているからではなく(動物たちでも鳴声などで意志の疎通は可能である)、自己の存在を言語的に理解することを可能にしているからなのである。もし言語を失ったとしても、われわれには意志の疎通 が可能であろうが「自分が何であるか」「世界とは何か」ということを言語的に理解することができなくなれば、人間は即座に猿人の時代に逆戻りするだろう。
そういった「自分が何であるか」「世界とは何か」ということへのアプローチが哲学の本質であるが、「哲学」自体は一つの理論を体系立てて考察する分野なので、たとえば「死」の先には天国や地獄があるとか、世界がカメの甲羅の上に乗っているとかいった「イカナルオトギ話」も述ベテハナラナイ-という鉄則を守って理論を構築しなければならない。
しかし「文学」にはそういった鉄則はなく、逆に「いかに魅力あるオトギ話で哲学をするか」ということが要求される分野であるので、そこには「より味気のある、より感じがつたわる哲学」が展開される可能性が大いに秘められている。


そして「エンターティメントの要素」は言うまでもない。何らかの意味で面白くなければ、読者に読む楽しみを与えなければ、その文章は到底「文学」にはなりえない。
詩と哲学の二つの要素は満たしているのに「エンターティメントの要素」が欠けているために失敗したヌーボーロマンを、私は幾つか知っている。しかし逆に「エンターティメントの要素」しかないのに「文学」を詐称している「物語」も私は幾つも知っている。



私がエポケー(=「本質観取」:その事象がその事象であるためになくてはならない条件を徹底的に突詰めて考えるという哲学の方法)によって還元した「文学」の要素が以上の三つである。
他人に「文学の要素とはこれだ!」と言われても抵抗があるだろうから、逆にこう考えていただきたい。いわゆる名作・傑作といわれる文学を博く読んで「文学の本質とは何か」と自分で考える。おそらくどの作品にも、程度の差こそあれ以上の三点が浮かんでくるはずである。

1、2、3、と番号を付けたがこれらに重要性の順番はなく、すべて満たされていなければならない要素であり、このうち一つでも欠けるとその文章は「文学」とは呼べない。たとえば三つの要素が一つづつ満たされれば、それはそれぞれ「詩」であり、「哲学」であり、「娯楽小説」なのであるし、どれか一つが欠ければそれは味気ない謎解き小説(詩の要素の欠如)や知性のない耽美小説(哲学の要素の欠如)、あるいは自己満足の実験小説(エンターティメントの要素の欠如)のようなものになってしまうのである。


しかし悲しき哉、昨今の「文学」とよばれる文章でこれらの要素を満たしているものがどれほどあるかといえば、答えは「ほとんどなし!」、である。

それは好みの問題だと言われるかもしれない。もちろん「推理小説」「耽美小説」「娯楽小説」としてそれらを楽しむ分にはなんら文句はない。ものを読むということには個人的な嗜好が間違いなく含まれるのだから、それについてとやかく言うつもりはない。ただ、以上の要素のない文章が自らを「文学」と称する-それは御門違いだと、私は断じて言いたい。

まったく否定的に考えているのではない。もちろん砂粒のなかに砂金は混じっているし、私の知らないところにはプラチナが眠っているかもしれない。だが「文学」と称しているもの-特に自ら純文学とノタマウところの日本「文学」など、これらの要素のただ一つも満たしていないものに私は今までどれだけ失望させられ、どれだけ貴重な時間を奪われたことであろうか!! 



…少し興奮してきたので落ち着こう。

つまり、似非文学の多くまかり通っている現在、三つの要素を満たした「真に文学たる文学」を見出だし、研究することこそが、何よりも文学部生に必要な課題なのではなかろうか-と私は考えるのである。
そのためには最初の一歩を踏み誤ってはならない。読むだけならばいいが、研究するのに「似非文学」を選んでしまっては悲惨極まりない。そのためにまずせねばならないことは、見識を深め洞察力を養うことである。つまり「多くの文学を博く読む」ということである。

私は読んだ。
そして読みながら求め続けた。
そしてとうとう見出だした。

三つの要素云々を言わせないほど優れた文学、今まで人類が達しえた「文学の最高峰」にまちがいない文学を。




マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」

俗に二十世紀文学の最高峰と言われ、書店や図書館では第一巻だけが無くなっている全十巻の長編小説(ちくま文庫版)。しかし、二十世紀の最高峰というのがどれほどつつましやかな表現であったことか! 一巻の先にはどれほど素晴らしい宇宙が広がっていたことか!
 
…また興奮してきたので落ち着こう。

しかし、先の興奮が「わかってもらいたい」憤懣やる方なきものであったのに対し、この興奮は「わかちあいたい」、心ときめく感動の興奮なのである。



プルーストが私に与えた感嘆、感動は、どんなに言葉を尽くしても伝えつくすことはできないだろう。なぜなら「失われた時を求めて」自体が言葉が表現できる領域の最奥底にまで達しているのだから。言葉が表現しうる芸術の最高峰に達しているのだから。
だからこそ、私が言えるのはただ一つの単純な言葉-「『失われた時を求めて』をお読みなさい」という言葉だけなのである。
冗談ではなく、「失われた時を求めて」を多くの人に読んでもらいたいというのは私の心からの気持ちなのである。だが、気持ちを伝えるだけでは論にはならないし(それだけの論というのは案外多いのかもしれないが)、「『失われた時を求めて』をお読みなさい」だけで卒論が終わるわけもない。
そこで、私は今回の論文を書くにあたってこう考えた-「その文学論をもって、プルーストへの門戸をより開きうるような文学論を書こう」、と。



第一巻だけが無くなっているという現状からわかるように、プルーストがわれわれにとって狭き門であるのは事実である。しかし、その狭き門は特別 な資格を必要としたり、高得点を求めてきたりするものではなく、常にわれわれに開かれてはいる。
ただ、読んだ人ならご存知だろうが「失われた時を求めて」はとにかく全体として長いし、一つの描写 が延々と続くことが多い。そして一つ一つの文章も長い、ある意味「読みにくい」ものであることは確かである。
その文章には様々な意味で優れた表現が多いが(今回いくつか引用したが、それはほんの一握りである)、普通 の「物語」を読むようなテンポで読んではとても読み続ける気にはならないかもしれない。また、この小説は全体的に非常に面 白いエンターティメントの要素を持っているのだが、その遅いテンポ-「コンブレー」の描写 や「土地と名」についての説明など-が立ちふさがったせいで「面白くない冗漫な小説」として二巻以降をあきらめた人も多いのではないだろうか。


そこで、私は今回の論に-「失われた時を求めて」概図-という物語の要約的な側面 をもたせた。もし全体の話がわかった上でそれぞれの文章を味わえたなら、一巻から順に根気強く文章を味わってゆくよりも楽しく、効率よく長編小説が読めるはずではないか。
たとえば設計図をもとにピラミッドをつくるのと、設計図なしに石を積み上げていくのではその効率と期待は大きく違うだろう。全体を把握しているか、していないかは「失われた時を求めて」ほどの長編を読むにあたってはそれが読者にもたらす結果 は大きい。
そういった理由で「失われた時を求めて」を読んでいない人のために-「失われた時を求めて」概図-という側面 を持たせたのであるが、物語の構造についても考察するという本論の性格上、物語の説明なしでは論がわかりにくいため、概図という側面 はどうしても必要でもあったと思う。

だが何よりも、「学が学として学のうちにとどまっていては意味がない」という私の理念から、「失われた時を求めて」十冊を読んだ幾許かの人だけではなく「失われた時を求めて」を読んでいない多くの人々にも読める-ということをを大前提に本論を書いていることをご理解願いたい。



「失われた時を求めて」概図-という本論の側面について触れたので、『プルーストの哲学的文学論』という本論の本筋についても説明しておこうと思う。

「文学論」には色々な方法がある。たとえば他の文学と比較したり、その文学が扱っている美術なり音楽なりを取り出したり、…そういったアプローチの仕方もあるにはある。
ただ、先に一つの文章が「文学」と呼ばれるための要素を考察したように「文学論」についても私なりの考え方を言わせてもらえるなら、それが文学「論」である以上は「文学」における論理《ロゴス》の領域を扱わねばならない-ということが重要である。
「文学」という三つの要素の綜合体について、個別的「感想文」としてではなく、普遍的・体系的「論」として論じる場合、理論的な「論」が成立するのは「哲学」の要素に関してだけである。


先の三つの要素で哲学的要素は理性の大きく関わるところであり、詩的要素とエンターティメントの要素は特に感覚・感性の分野に属するところである。
たとえば感覚の領域で「論」を立てようとしても、それは刻々と変化する漣の上に建築物を建てようとするのと同じてある。
そこにきっちりした論が成立すれば素晴らしいことだが、おそらく「感想文」になったり「感性の分野を体系化する」という味気ない分析学になってしまう可能性の方が極めて高い。それこそ「『失われた時を求めて』をお読みなさい」という一つの言葉ですべてが括れてしまうような分野なのである。
また、文学が扱っている諸芸術などを蘊蓄するようなことも、私には「文学論」だとは考え難い。なぜならそれは文学それ自体について語っているのではなく、文学が扱っている部分《パーツ》について語っているのだから。
自動車のバンパーの美しさを研究してもなぜ自動車が走るのかは解らない。自動車がなぜ走っているのかを理解するためにはパーツではなく全体の構造を考えねばならないし、走る原理を理論的に理解しなければならない-それがすなはち「哲学的文学論」なのである。


今回は「失われた時を求めて」のもつ現象学的な要素を、それぞれの篇と特に関係のあるトピックスとを結び付け、物語を追いながら論を展開できるような構成にした。「『失われた時を求めて』概図」の要素がそのまま「プルーストの哲学的文学論」と混ざり合っている部分もあるが、基本的には二つの区切れ目を「 ∵ 」の記号で明らかにするようにはした。「論」と「概図」をスムースに読み進めてゆくことができるように心を配ったため、「論」としては少し煩雑になってしまっていることは否めないが、しばしお付き合いいただければ幸いである。


本文の引用は特に指示がなければ「失われた時を求めて」その篇からの引用である。なお、今回の原書の底本はGF-Flammarion版によった。