03/7/9
「マクベス」
サードステージ
三百人劇場
03/8/27
「牡丹灯籠」
八月納涼歌舞伎
東京歌舞伎座
−および
日本の怪談について−
03/9/19
「nocturne」
維新派
新国立中劇場
03/10/4
「トスカ」
プラハ国立歌劇場
東京文化会館
−トスカの二幕について
03/10/31
十月の歌舞伎
寸評三本
03/11/19
「天衣紛上野初花」
幸四郎の河内山
国立大劇場
03/12/3(初日)
二蓋笠柳生実記
菊五郎・菊之助・團蔵
国立大劇場
04/1/31
「鳴神・俊寛」
二本の日本のオペラ
新国立オペラ劇場
|
|
日本の怪談について、少々。
勧善懲悪、信義忠節、義理人情といったものが、ほとんど必ず根底にある日本の古典芝居の中にあって、「怪談」というのは実に見事な変種であると言えましょう。
「怪談ではない」演目が華々しく見せる筋の通った「建前」とは正反対の、生きている人間の手前勝手、理不尽、酷薄な「本音」を、幽霊の復讐譚に仮託して、建前の芝居に慣れきった観客の眼前に「現実はそんな奇麗なもんじゃぁない」と突き付ける。−使い古された言葉で表現するならば『幽霊よりも生きている人間の方が恐い』ということを、まざまざと見せつけてくれます。
しかし、「人間の方が恐い」というのは、幽霊より人間の方が悪くて酷い、という上ッ面の意味ではなくて、そういった利己的な「欲・本音」がどんな人の心の中にもあるのだ−という、いわば自省的な恐怖を意味するものだと私は考えます。
かかる怪談の典型として、古今稀なる大傑作は「東海道四谷怪談」を置いて他にはありませんが、私が一番「怖い」と思う話は『宇都谷峠・文弥殺し』です。
盲の文弥は、姉が苦界に身を沈め工面してくれた百両の金を持って、 座頭の官位を買いに京に向かいます。一方、恩ある旧主のために上方に金策するも首尾を得なかった伊丹屋重兵衛は重い足取りで帰途についています。二人は丸子宿で同宿となり、親切な伊丹屋はスリに付け狙われていた文弥を救ってやります。そして、伊丹屋は不如意な文弥のため物騒な宇都谷峠を同道してあげる、のですが…。
−この話の恐ろしいところは、伊丹屋は本来ちっとも悪人などではなく、旧主の恩に報いるべく奔走し、盲の文弥に心優しく親切に振舞う立派な男であるにも関わらず、自分を信頼した文弥が百両を持っている事を宇都谷峠で話した途端、自らの非道を承知しながらも、苦渋の豹変をしてしまうところにあります。
姉が身を売って工面した大事な金を貸してくれなどと無理を言われ、困惑しつつ丁重に断り続ける目の見えぬ非力な文弥を、伊丹屋は結局力でねじ伏せ、惨殺して金を奪って「しまう」のです。
その後の伊丹屋と文弥の姉の因縁譚・幽霊怪談などはともかく、この殺しの場面は、勧善懲悪、信義忠節、義理人情などによって積み上げられた全うな「建前」の物語世界を一気に突き崩す、なんとも恐ろしい、まさに日本の怪談の本質を象徴するような残酷な一場だと言えましょう。
昨今の「都市伝説」系の恐怖が、頬に一瞬鳥肌が立つようなサラッとした恐さであるのに対し、こういった「怪談」は臓腑の底に鳥肌がしばらく立ち続けるような、自らの人間としての本質的部分に強烈な一撃を与えるような類の恐怖のように私は思います。
さて、『牡丹灯籠』も、そういった人間の「本音」の部分の悲しさ、恐ろしさを描いた怪談であります。
誰もが知っている「お露さんの幽霊がお札を剥がしてもらって萩原新三郎をとり殺す」というあらすじは、この物語の発端に過ぎません。この物語の本当の主人公は、幽霊に頼まれて百両の金でお札を剥がした下男「伴蔵」夫婦です。
幽霊からもらった百両を元手に、郷里で商いを始めて成功した伴蔵夫婦でしたが、伴蔵は遊女のお国(実はお露の継母て、間夫の源次郎と計ってお露の父を殺して駆け落ちた訳あり者)に入れあげ、貧苦を共にした女房が邪魔となり、うら寂しい水辺に誘い出して殺してしまいます。
フル・バージョンではその後、女房の霊の女中への憑依、お国と源次郎の伴蔵への悪巧み、伴蔵と源次郎の悪同士の絡み、切り合い、源次郎とお国を討った伴蔵も泥沼に沈んで死んでしまうという展開・結末があるのですが、今回は伴蔵が女房を殺し、すぐさまその場で女房の幽霊に川に引きずり込まれてしまうという幕切れでした。
お露と新三郎に関わった伴蔵・お峰、源次郎・お国のそれぞれの夫婦ものの錯綜する運命の結末の部分がバッサリとカットされた形ではありましたが、そもそも原作の円朝噺は「真景累ヶ淵」にしろこの「牡丹灯籠」にしろ、
回を重ねて作り上げてゆく「噺」という性格上、どうしても延ばし延ばしの冗漫な感のあるものなので、この改編は伴蔵・お峰に話の力点がしっかりと置かれたことにより(源次郎・お国の存在が不明瞭にはなったものの)、構成としてはすっきりとして良かったのではないかと思います。
しかし何より、今回特筆すべきは伴蔵女房お峰役の福助の素晴らしさです。
前半は、貧しいながらも伴蔵と幸せに暮らし、苦しい家計をしっかり支える擦れっ枯らしの古女房を、伴蔵役の三津五郎とのコメディタッチの掛け合い、大袈裟に幽霊に怯える様で、普段の綺麗どころの女形からは考えられない程可笑しみのある「長屋女房」振りを見せます。
後半、大店のおかみさんと呼ばれるまでになったものの、貧乏の出自がいささか抜けきれず、金と身分を得てお国に入れ揚げる夫を威勢よくなじったり、
はたまたしみじみ哀願したり、「貧乏時代のささやかな幸せ」を哀惜したりと、貧苦を共にした古女房の何ともいじらしい様を見せます。
そういった愛らしい、憎めない、少し品のない古女房を、普段は綺麗な福助が見事なまでに演じたことによって、大詰め、お国とのことを悔いた夫に優しくされ、久々の幸せを実感している道中に、本水の雨の中で裏切られて殺害されてしまう「殺し」の場が、とても残酷で、哀れで、悲しい、真の意味で「怖い」ものとして、見事に仕上がっていたと思います。
そんな残酷な女房殺しをしながらも、しかし伴蔵は伴蔵で、そこまで古女房を疎ましく、憎く思っていたわけではありません。前半のこの夫婦(三津五郎と福助の芝居)は、貧しくとも明るく、互いに支え合っている、とても情の深いキュートな夫婦に見えます。後半でも、三津五郎はそんなに邪険に豹変するわけではない。−けれど、自分の貧乏時代を思い出させる年増の古女房と、元は屋敷出の若くて器量の良いお国を天秤にかけた時、この男の欲の「本音」は、冷酷にも女房殺しに傾いてしまうのです。
「建前」の芝居や理屈ではとても成立しないような、物語として半ば破綻した複雑奇妙な心理が、現実的な生々しい実感として我々を納得させる説得力を持っている。−日本の怪談は、単純な西洋の恋愛譚などでは到底描けないような、深い恋情と欲の業を描き出します。
しかし、それもしっかりした役者の芝居があったればこそで、お峰をただのいがみ婆、伴蔵を根っからの極悪人のように演じてしまえば、「嫌な女だから殺された」「悪い男だから殺した」という、単純明快、安っぽい理屈の通った、ただの残酷物語になってしまいます。
そうではなくて、 理由も理屈もない、ただただ勝手で、ただただ悲しい人間の心の闇が見えるからこそ、日本の怪談は怖いのです。
|
|