四大悲劇のうち、「マクベス」は唯一、人の心の内部で起こる悲劇です。
「リア王」は人間(たとえ勇猛な王であろうとも、心正しき娘であろうとも)にはどうすることもできない人智外の峻厳たる運命を描き、「オセロ」の嫉妬心は、根拠も理由もない「絶対悪」の擬人化された第三者、イアーゴによって外部から焚き付けられます。「ハムレット」は自らの環境と存在に深く苦悩しますが、その物語の焦点はハムレットの個人的な苦悩よりも、むしろ登場人物全員が非業に死に、通りすがりのフォーチンブラスが収拾をつけるという、「死んだ者」と「死ななかった者」−つまり「死」というテーマに−大きく依っているように思います(「ハムレット」はとても複雑で深い作品なので、詳しくはまた別の機会に)。

さて、「マクベス」は魔女の予言によって暗い情念を抱き、その話を聞いたマクベス夫人も同じく野心を抱き、王曰く「心の正しい者」であったはずの二人は互いに計ってその王を殺します。

ここで見誤ってはならないことは、 マクベスも夫人も、そもそもイアーゴのような絶対的な大悪人ではなかった−むしろ、豪傑だけれど気の弱い、王に愛さるるべき臣下と、その内助を支えるしっかり者の賢妻であった−ということです。

マクベス夫人はよく悪女としてイメージされますが、彼女もマクベスと同じく、魔女の予言を伝える夫の手紙によって心に毒を注がれてしまったに過ぎません。決意を鈍らせる腑甲斐無い夫を励ますため気丈に、いかにも悪女のように強く振舞いますが、それが実は夫と自らを奮い立たせるための極度の緊張状態であったからこそ、彼女は狂気に陥って死んでしまうのです(本当の悪人ならば自らの悪事に狂い死にはしません)。マクベス本人も、魔女の予言の実現という甘い誘惑とそれによる猜疑心によって王と友を殺し、しかし良心の呵責ゆえ殺した者の幻影を見て宴席で狂態を演じるような、弱き良心の人です。

予言といういかがわしげな些細なきっかけによって、道を誤り悪事を犯し、「してしまったこと」のとてつもない大きさにもはや後戻りすることもできず、一方は狂気に帰結し、一方は最後まで魔女の予言にすがりながら死んでゆく−これは弱く、脆い人間の心の「内部」で起こる悲劇に他ありません。


今回の舞台は、日本におけるシェイクスピア翻訳の大家福田恒存先生の流れを汲むサードステージだけあって、そういった正統的解釈に乗っ取った、シェイクスピアとしてのシェイクスピアをきっちりと掛けようという心意気の感じられる、良くも悪くも、折り目の正しい舞台でした。
(余談ですが、去年新国立中劇場で掛かった、マクベス夫妻=鹿賀丈史・高橋恵子、魔女=荻野目慶子の「マクベス」はその配役の魅力にも関わらず、原典とはかけ離れた無意味な悪修筆と、「何か意味ありげ」に派手に見せながら結局何の演出的理念もない、私の知る限り最低のシェイクスピア劇でした)

今回の舞台で、マクベス夫人は予言を知らせる手紙を読む前には庶民と一緒になって洗濯仕事をし、亭主の戦死の報を受けて悲しむ女房に温かな同情を見せる「普通の」女として最初に描かれており(その変貌ぶりがもう少し丁寧に描かれればなお良かった)、ことの発端となる「魔女」たちもおどろおどろしい異形の者としてではなく、深い悲しみをたたえた少々神懸かりのあるジプシー女たちとして登場するので、この物語が「魔力」によるものではなく、マクベス夫妻の内的な心理劇であることがより際立っていました。
バンクォーの幽霊も舞台に姿を現さず、マクベスにしか見えない、誰も座っていない椅子をもって演出され、それが効果的に物語をマクベスの内面に向かわせることに成功していました。

演じ手も概ね良く、それぞれ役どころの解釈はきっちりと押さえられているようでした。主役二人は、主役ですから解釈も練習もよくやっているという「責任感」と「存在感」は充分に伝わってきましたが、ただ、「疑い」→「希望」→「ためらい」→「決意」→「悪の実行」→「猜疑」→「呵責」→「不安」→「狂気/絶望」というそれぞれの内的葛藤というか、精神の流れというようなものに少々統一感のない感じが否めず、「一人の人間のリアルな心理」を細やかに演じることが十分・完璧には出来てはいなかったという感想をもちます。
一人の人間の心理が弱から強へ、善良から悪へ、満足から不安へと変わる、「一人の人間の精神の揺れ動き」ということをこの二役は演じなければならないので、ただただ悪であるイアーゴやひたすら陰気なハムレット、リアの娘の正直なコーディリアとは比べようもないほど難しく、「役柄としてのアイデンティティー」を保つのが非常に困難な役だと思います。また、演じ手にとっても見せ場の多い役なので、悪い時は極悪の演技、恐れる時は震えるまでの演技、狂った時はみごとな狂人の演技…と、力一杯演じたい気持ちも解りますが、しかし、そこに「一人のマクベス」「一人のマクベス夫人」という前提をしっかりと保たなければ、精神分裂症的な、様々な演技の見本集・演技大会のような芝居に、どうしてもなってしまいます。(今回はそこまで酷いものではなく、その統一感がもう少しあれば完璧というレベルでした)

「 良くも悪くも」折り目正しい舞台は、ベースとしては「良い」ものでしたが、欲を言えば、今回の「マクベス」でしか見ることのできない何らかの解釈、エッセンスがもう少し加味されていれば、限りなく満点に近い作品となっていたことと思います。
原典に忠実な舞台を目指しているのですから、 蜷川版のように舞台を仏壇に見立てたりまではしなくとも、魔女のジプシー女たちの悲哀と善良なマクベス夫人の悲劇を「女の悲しみ」として両方面から見せるなり、夫人ではなくマクベス側の狂気にもう少しスポットを当てるなり、折角深めた解釈を隅々にまで緻密に活かすことができていれば、正統で、かつオリジナリティーのある「ならでは」の舞台となっていたことでしょう。


 
203/7/9 
「マクベス」
 サードステージ 
 三百人劇場
 

 03/8/27 
「牡丹灯籠」
 八月納涼歌舞伎 
 東京歌舞伎座 
 −および 
 日本の怪談について−
 

 03/9/19 
 「nocturne」
 維新派 
 新国立中劇場 
 
03/10/4 
 「トスカ」
 プラハ国立歌劇場 
 東京文化会館 
 −トスカの二幕について 

 03/10/31 
 十月の歌舞伎 
 寸評三本 


03/11/19 
 「天衣紛上野初花」
幸四郎の河内山 
 国立大劇場 


 03/12/3(初日)
 二蓋笠柳生実記 
 菊五郎・菊之助・團蔵 
 国立大劇場 


 04/1/31 
 「鳴神・俊寛」
  二本の日本のオペラ 
 新国立オペラ劇場 



 


  03/7/9 
「マクベス」
 サードステージ 
 三百人劇場 


 03/8/27 
「牡丹灯籠」
 八月納涼歌舞伎 
 東京歌舞伎座 
 −および 
 日本の怪談について−


 03/9/19  
 「nocturne」
 維新派 
 新国立中劇場  

 03/10/4 
 「トスカ」
 プラハ国立歌劇場 
 東京文化会館 
 −トスカの二幕について 


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 03/11/19 
「天衣紛上野初花」
 幸四郎の河内山 
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 03/12/3(初日)
 二蓋笠柳生実記 
 菊五郎・菊之助・團蔵 
 国立大劇場 


 04/1/31 
 「鳴神・俊寛」
  二本の日本のオペラ 
 新国立オペラ劇場 




 


日本の怪談について、少々。

勧善懲悪、信義忠節、義理人情といったものが、ほとんど必ず根底にある日本の古典芝居の中にあって、「怪談」というのは実に見事な変種であると言えましょう。

「怪談ではない」演目が華々しく見せる筋の通った「建前」とは正反対の、生きている人間の手前勝手、理不尽、酷薄な「本音」を、幽霊の復讐譚に仮託して、建前の芝居に慣れきった観客の眼前に「現実はそんな奇麗なもんじゃぁない」と突き付ける。−使い古された言葉で表現するならば『幽霊よりも生きている人間の方が恐い』ということを、まざまざと見せつけてくれます。

しかし、「人間の方が恐い」というのは、幽霊より人間の方が悪くて酷い、という上ッ面の意味ではなくて、そういった利己的な「欲・本音」がどんな人の心の中にもあるのだ−という、いわば自省的な恐怖を意味するものだと私は考えます。


かかる怪談の典型として、古今稀なる大傑作は「東海道四谷怪談」を置いて他にはありませんが、私が一番「怖い」と思う話は『宇都谷峠・文弥殺し』です。

盲の文弥は、姉が苦界に身を沈め工面してくれた百両の金を持って、 座頭の官位を買いに京に向かいます。一方、恩ある旧主のために上方に金策するも首尾を得なかった伊丹屋重兵衛は重い足取りで帰途についています。二人は丸子宿で同宿となり、親切な伊丹屋はスリに付け狙われていた文弥を救ってやります。そして、伊丹屋は不如意な文弥のため物騒な宇都谷峠を同道してあげる、のですが…。

−この話の恐ろしいところは、伊丹屋は本来ちっとも悪人などではなく、旧主の恩に報いるべく奔走し、盲の文弥に心優しく親切に振舞う立派な男であるにも関わらず、自分を信頼した文弥が百両を持っている事を宇都谷峠で話した途端、自らの非道を承知しながらも、苦渋の豹変をしてしまうところにあります。
姉が身を売って工面した大事な金を貸してくれなどと無理を言われ、困惑しつつ丁重に断り続ける目の見えぬ非力な文弥を、伊丹屋は結局力でねじ伏せ、惨殺して金を奪って「しまう」のです。

その後の伊丹屋と文弥の姉の因縁譚・幽霊怪談などはともかく、この殺しの場面は、勧善懲悪、信義忠節、義理人情などによって積み上げられた全うな「建前」の物語世界を一気に突き崩す、なんとも恐ろしい、まさに日本の怪談の本質を象徴するような残酷な一場だと言えましょう。

昨今の「都市伝説」系の恐怖が、頬に一瞬鳥肌が立つようなサラッとした恐さであるのに対し、こういった「怪談」は臓腑の底に鳥肌がしばらく立ち続けるような、自らの人間としての本質的部分に強烈な一撃を与えるような類の恐怖のように私は思います。


さて、『牡丹灯籠』も、そういった人間の「本音」の部分の悲しさ、恐ろしさを描いた怪談であります。
誰もが知っている「お露さんの幽霊がお札を剥がしてもらって萩原新三郎をとり殺す」というあらすじは、この物語の発端に過ぎません。この物語の本当の主人公は、幽霊に頼まれて百両の金でお札を剥がした下男「伴蔵」夫婦です。

幽霊からもらった百両を元手に、郷里で商いを始めて成功した伴蔵夫婦でしたが、伴蔵は遊女のお国(実はお露の継母て、間夫の源次郎と計ってお露の父を殺して駆け落ちた訳あり者)に入れあげ、貧苦を共にした女房が邪魔となり、うら寂しい水辺に誘い出して殺してしまいます。

フル・バージョンではその後、女房の霊の女中への憑依、お国と源次郎の伴蔵への悪巧み、伴蔵と源次郎の悪同士の絡み、切り合い、源次郎とお国を討った伴蔵も泥沼に沈んで死んでしまうという展開・結末があるのですが、今回は伴蔵が女房を殺し、すぐさまその場で女房の幽霊に川に引きずり込まれてしまうという幕切れでした。

お露と新三郎に関わった伴蔵・お峰、源次郎・お国のそれぞれの夫婦ものの錯綜する運命の結末の部分がバッサリとカットされた形ではありましたが、そもそも原作の円朝噺は「真景累ヶ淵」にしろこの「牡丹灯籠」にしろ、 回を重ねて作り上げてゆく「噺」という性格上、どうしても延ばし延ばしの冗漫な感のあるものなので、この改編は伴蔵・お峰に話の力点がしっかりと置かれたことにより(源次郎・お国の存在が不明瞭にはなったものの)、構成としてはすっきりとして良かったのではないかと思います。


しかし何より、今回特筆すべきは伴蔵女房お峰役の福助の素晴らしさです。


前半は、貧しいながらも伴蔵と幸せに暮らし、苦しい家計をしっかり支える擦れっ枯らしの古女房を、伴蔵役の三津五郎とのコメディタッチの掛け合い、大袈裟に幽霊に怯える様で、普段の綺麗どころの女形からは考えられない程可笑しみのある「長屋女房」振りを見せます。
後半、大店のおかみさんと呼ばれるまでになったものの、貧乏の出自がいささか抜けきれず、金と身分を得てお国に入れ揚げる夫を威勢よくなじったり、 はたまたしみじみ哀願したり、「貧乏時代のささやかな幸せ」を哀惜したりと、貧苦を共にした古女房の何ともいじらしい様を見せます。
そういった愛らしい、憎めない、少し品のない古女房を、普段は綺麗な福助が見事なまでに演じたことによって、大詰め、お国とのことを悔いた夫に優しくされ、久々の幸せを実感している道中に、本水の雨の中で裏切られて殺害されてしまう「殺し」の場が、とても残酷で、哀れで、悲しい、真の意味で「怖い」ものとして、見事に仕上がっていたと思います。

そんな残酷な女房殺しをしながらも、しかし伴蔵は伴蔵で、そこまで古女房を疎ましく、憎く思っていたわけではありません。前半のこの夫婦(三津五郎と福助の芝居)は、貧しくとも明るく、互いに支え合っている、とても情の深いキュートな夫婦に見えます。後半でも、三津五郎はそんなに邪険に豹変するわけではない。−けれど、自分の貧乏時代を思い出させる年増の古女房と、元は屋敷出の若くて器量の良いお国を天秤にかけた時、この男の欲の「本音」は、冷酷にも女房殺しに傾いてしまうのです。


「建前」の芝居や理屈ではとても成立しないような、物語として半ば破綻した複雑奇妙な心理が、現実的な生々しい実感として我々を納得させる説得力を持っている。−日本の怪談は、単純な西洋の恋愛譚などでは到底描けないような、深い恋情と欲の業を描き出します。
しかし、それもしっかりした役者の芝居があったればこそで、お峰をただのいがみ婆、伴蔵を根っからの極悪人のように演じてしまえば、「嫌な女だから殺された」「悪い男だから殺した」という、単純明快、安っぽい理屈の通った、ただの残酷物語になってしまいます。


そうではなくて、 理由も理屈もない、ただただ勝手で、ただただ悲しい人間の心の闇が見えるからこそ、日本の怪談は怖いのです。

 
 
 


さて、この舞台を評することは出来るでしょうか?

顔を白塗りした大勢の演じ手が芸能山城組(映画「アキラ」の音楽で有名)系の音楽にあわせて走ったり、踊ったり、発声したり、「ものがたり」を演じたり…。

観念的な感想を書こうとすると、結局、腕を組んで「うーん」とうなるはめになってしまいます。
踊りや発声という「フィジカルな表現」ということで、おそらくこの集団は観客に感動を伝えたいのだと思います。ですから、終演後小耳にはさんだ二つの感想、一方おばさまの「難し過ぎて、私にはわかんないわ」、一方学生風の若い女の子の「よかったけど、わからない謎な部分がいくつかあるんだよね」というのは、この舞台の見方・受け止め方として、いささかズレているように私には思われます。
つまりはそもそも、「解ってもらおう」なんて思っちゃあいないんです(悪い意味ではありません)。
なぜなら、これはあくまで「フィジカルな表現」なのですから。

しかし、です。

さりとて「フィジカルな表現」という部分で、私の実感としては、さほど掘り下げられたもの(深い感動を呼び起こすもの)でもありませんでした。

理由を箇条書きにしてみますと−

1. 肉体の動きに、暗黒舞踏のように突き詰められた迫力がない。もちろん、暗黒舞踏とは別物ではありましょうが、ジャンルが違っても「舞踏」としての肉体への力の入れよう(力めば良いというものではありませんが)・向き合い方に、神経のゆきとどきや迫力、必然があまり感じられませんでした。肉体の動きを突き詰めた「表現」というよりも、不要な、無駄な動きの寄せ集めを人数の力でゴリ押した−という印象です。

2. 発声も、意味をなさない言葉の羅列を「連想ゲーム」のように発声する着想は大変良いのですが、それによって「ことば」の意味の部分に揺さぶりをかけ、「意味をなさないことば」というものの根幹にまで表現が迫ることが出来ているかというと答は否で、連想のさせ方、反復の仕方が、逆に「ことば」の意味に足を引っ張られて「フィジカルな表現」としての「声」の魅力を損なってしまうような、そんな中途半端な、表層的なもののように感じられてしまいました。

3. そして、最も致命的だったのが、全体を通してちょこちょこ演劇的に演じられる「ものがたり」のバランスです。
老人の過去と現代の都市(おそらくイメージとしての新宿)が錯綜し、 満州の様々な民族が入り交じった雑多さと、残留孤児を匂わせる中国人密入国者たちが駆け回る現代都市の雑多さを相対化する−という「ものがたり」が、色々な「動き」の間に断絶的に挿入されて突然芝居が始まったりするのですが、それが舞台の流れをブツ切りにし、連続性を損ない、致命的に舞台全体の統一感を破綻させてしまっていました。
バランス良く、適量な「ものがたり」を配し、フィジカルな表現にエッセンスを加える程度ならば良かったし、逆に「ものがたり」を主・表現を従にしていても良かったのですが、そのどちらをも目一杯やってしまって、結局何をやりたかったのかが観客に届かないものになってしまった−そう、私には受け取れました。


満州と新宿の『雑多さ』という共通項を抽出して、それをほとばしる肉体のエネルギーで『時空を越えた人間のエネルギー』として単純に表現していれば、 それはなかなか心を打つ舞台になったのではなかろうかと思います。

しかし 「残留孤児」「満州の赤土を行進する日本軍」「密入国」などというキーワードを思わせぶりに挿入し、下手をすると「日本人も満州に行ってたんだから、現代の密入国者もそれと同じ」というような粗暴なメッセージとして受け取れなくもないような、舌足らずな、妙に説教臭さのあるバランス過剰な「ものがたり」は、明かに大きな失敗であったと思います。
それが、フィジカルな表現に理屈なく感動する観客の視点をぼやけさせ、「難し過ぎて、私にはわかんない」「よかったけど、わからない謎な部分がいくつかある」という、あまり釈然としない観劇後感を与える結果となったのでしょう。


今までの維新派の舞台を見たことはありませんが、 廃校や埋立地といった「場所の魅力を活用する」集団にとって、新宿の劇場というのは直感的なイメージの沸き立たない、観念的な存在に過ぎたのかもしれません。

普段の、野外での維新派の舞台を、次は是非観てみたいものです。

 
203/7/9 
「マクベス」
 サードステージ 
 三百人劇場 


 03/8/27 
「牡丹灯籠」
 八月納涼歌舞伎 
 東京歌舞伎座 
 −および 
 日本の怪談について− 


    03/9/19  
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維新派 
新国立中劇場 


03/10/4 
 「トスカ」
 プラハ国立歌劇場 
 東京文化会館 
 −トスカの二幕について 


03/10/31 
 十月の歌舞伎 
 寸評三本 


03/11/19 
 「天衣紛上野初花」
幸四郎の河内山 
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 03/12/3(初日)
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 菊五郎・菊之助・團蔵 
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  二本の日本のオペラ 
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