今回、このマリア・グレギーナの「トスカ」で、私は初めてこのオペラの第二幕に「歌に生き、恋に生き」というアリアのあることを納得することが出ました。

「トスカ」の二幕は、気高く情熱的な歌姫トスカと、隣室で拷問される恋人の命を質にトスカに自白と愛を求める悪の権力者スカルピア、堂々たる大役二人の手に汗握るスリリングな心理劇です。

私のみるところ、この幕は数あるオペラの中でも傑作中の傑作の幕で、 緊張感溢れる物語展開と音楽・歌曲の感情表現が見事な迄に合致しており、美しいプッチーニの音楽を『聴いて』いるのに、まるで最上級に研ぎ澄まされたストレートプレイを『観て』いるかのような感覚に誘われる、音楽と戯曲の綜合としての「オペラ」の最高傑作であると言って、まず相違いありません。

しかし、この絶え間ない緊張感に張りつめた幕に、私は唯一つ欠点があると思っています。
それは、後半とって付けたように挿入される「歌に生き、恋に生き」というトスカのアリア(独唱)です。

物語に沿ってアリアや重唱、色々な「歌曲」が続けられる古典的オペラとは違い、二人の大役の感情のせめぎ合い、それぞれの感情の高下といったものが連続的な音楽によって、脈絡の通ったダイアローグ(対話)劇として完璧に完成されきっているのに、その完成に割って入る、あからさまな「聴かせどころ」。
−それはまるでヴェリズモ(現実主義)芝居の舞台で唐突に見得や八方を切るようなもので、その曲自体はとても美しいものであっても、それが歌手にとって大きな見せ場であっても、この洗練されたダイアローグのオペラの中にあってはいささか「演技過剰」な、不必要なモノローグであると、私には思えてならないのです。

なので、私にとってのトスカの良し悪しの基準は「歌に生き、恋に生き」以外の部分で、いかに『歌唱によってトスカの感情を演じられているか』というところに置かれます。
特に、トスカの昂った感情が怒りや嫌悪感として爆発する部分−伸びやかな高音から一気に最低部まで声を下げてドスの利いた台詞を吐き捨てるような部分−をどれほどしっかりと表現出来るかということが最も大事で、音源で言うならば、コリン・ディビス指揮フィリップス盤におけるモンセラ・カバリエのように低音部も「音楽」としてしっかりと連続的に歌いきるか、あるいはカラヤン盤のレオンティン・プライスのように低音部はドスの利いたアルトで情感たっぷりに「台詞」として表現するか、どのようにこの部分を表現するかという事に、私はその歌手の実力・表現力を見出だすのです。


そういった点で、今回のマリア・グレギーナは、残念ながら演劇的表現力に非常に乏しかったように私には聴かれました。

高音部分ではとても伸びやかに、声量豊かにすばらしい歌唱を聴かせるにも関わらず、いざ音域が下がるととたんに声量が乏しくなり、一階の中央の席にいた私の耳にすら声が「聞こえない」。また、 音楽的にではなく台詞としてこの低音の部分を表現するのですが、ほとんど棒読みのような台詞廻しで、トスカの激情・興奮を表現出来ているとはとても言えないレベル− メトやスカラ座で主役を張る当り役、 「現在望みうる最高のトスカ」 という触れ込みだったのに、私のトスカ観からは期待外れもいいところでした。

しかし、その落胆を補ってなお余りある奇跡が、二幕の後半にありました。

それは、私の嫌いな、「歌に生き、恋に生き」−この歌手のこの曲は、私が今まで聴いてきた、劇場、音源、あらゆる歌手、あらゆる歌曲のなかで、最高と断言してもよいほど素晴らしい「アリア」でした。

それまでの棒読み芝居とは打って変わって、アリアの最初の一音の始まった瞬間から、非常に豊かな感情の「ふくらみ」が声に込められ、そのふくらみが最後まで一瞬たりとも途切れず、しぼみもせず、過剰に膨らみもせず、まるで大きなシャボン玉を両の掌で保ちながら歌っているかのような絶妙な音楽の繊細さと、掌上のシャボン玉を壊す事なく劇場の隅々にまで全ての音を届かせるような安定した力強さを併せ持ち、この一曲をもって彼女を最高のトスカと断じても許されてしまうような、それほどまでに素晴らしい一曲でした。

グレギーナの「歌に生き、恋に生き」は、それまで私の思っていたトスカの二幕の欠点などではなく、今回の舞台の全てでした。

それ以外の部分がたとえ満足のゆくものでなかったとしても、今まで私にとって二幕の凹だったこのアリアが、二幕の凸となってしまったからには、その他の部分など、もう、どうでもいい−今回はそう思ってもよしとしてしまえる、またとない特別な「トスカ」だったと言えましょう。


 
03/7/9 
「マクベス」
 サードステージ 
 三百人劇場 


 03/8/27 
「牡丹灯籠」
 八月納涼歌舞伎 
 東京歌舞伎座 
 −および 
 日本の怪談について−
 

 03/9/19 
 「nocturne」
 維新派 
 新国立中劇場 

03/10/4 
 「トスカ」
 プラハ国立劇場 
 東京文化会館 
 −トスカの二幕について 

 03/10/31 
 十月の歌舞伎 
 寸評三本 


 03/11/19 
 「天衣紛上野初花」
幸四郎の河内山 
 国立大劇場
 


 
 03/12/3(初日)
 二蓋笠柳生実記 
 菊五郎・菊之助・團蔵 
 国立大劇場
 

 04/1/31 
 「鳴神・俊寛」
  二本の日本のオペラ 
 新国立オペラ劇場 


 


  03/7/9 
「マクベス」
 サードステージ 
 三百人劇場 


 03/8/27 
「牡丹灯籠」
 八月納涼歌舞伎 
 東京歌舞伎座 
 −および 
 日本の怪談について−


 03/9/19  
 「nocturne」
 維新派 
 新国立中劇場  

 03/10/4 
 「トスカ」
 プラハ国立劇場 
 東京文化会館 
 −トスカの二幕について 


 03/10/31 
 十月の歌舞伎 
 寸評三本 

 03/11/19 
「天衣紛上野初花」
  幸四郎の河内山 
 国立大劇場
 


 03/12/3(初日)
 二蓋笠柳生実記 
 菊五郎・菊之助・團蔵 
 国立大劇場 


 04/1/31 
 「鳴神・俊寛」
  二本の日本のオペラ 
 新国立オペラ劇場 




 


十月は気になる公演、演目が多くて大変でした。
だらだら書くのもなんですので、短く三本、寸評程度に。

競伊勢物語 (はでくらべいせものがたり)
市川猿之助一座
国立大劇場
03/10/7

「古典芸能」として歌舞伎をありがたがる人から見れば、 猿之助一座は宙乗りやド派な演出、斬新な試みで「イロモノ」のように感じられるもかもしれません。けれどそもそも、歌舞伎の根本は観客を楽しませる娯楽芸能なんですから、猿之助一座の精神は実に「歌舞伎的」で、他公演と比べて突出してハチャメチャな、サービス精神旺盛な猿之助さんの舞台、私は純粋に好きです。

今回は席料の安い国立劇場での公演だったので、花道脇の間近の席でハデな舞台を見ることができました。こういったハデな舞台は、やっぱり近ければ近いなりに楽しいので、おいそれと一階に降りることの出来ない歌舞伎座より、猿之助一座はこれからも国立劇場にもっと出て欲しいものです。(ここの座席の等級区分は変わっていて、一階席の中央と左右後方は一等、左右前方は二等となります。なので外側であれば、舞台間近の花道脇で、一等の三分の一程度の料金で観ることができます)

とにかく、今回もいつものパターンで、前半は猿之助大活躍のハチャメチャ・ストーリー→宙乗りにて幕、中盤は義太夫狂言「春日村」で猿之助が渋い演技を見せ、大詰めは猿之助抜きで右近の大立ち回り→最後に猿之助が出てきて幕。−という流れでした。ストーリーは…まぁ、あんまり重要ではないです、例の如く。
こう言っては失礼かもしれませんが、猿之助さんは結構高齢であるのに、激しいアクションをめいっぱい見せた後、続けて長時間の義太夫狂言をしっかりと演られ、私は毎度そのエネルギーに感服させられます。演技・芸道は歳を重ねるほどに円熟するものでしょうが、体力となるとそうはゆきません。なれどパワフルな熱演に、私はこの人のエンターティナーとして誠実な姿勢を感じます。
「見物を楽しませてやろう」という心意気を、演り手の猿之助は直球で投げて来る。 −それを真正面から受止めるのが、猿之助一座を楽しむ見物のコツでありましょう。


お染の七役
坂東玉三郎
東京歌舞伎座−夜の部−
03/10/16

「お染久松」の玉三郎七役です。お染、久松をはじめ、主要七役を玉三郎が一人で演ります。
新劇「ふるあめりかにそではぬらさじ」の主役・やり手の古芸者役のコミカルな演技で私は玉三郎さんの大ファンになったものですから、娘役よりも年増や毒婦を演るときのこの人の「声」に、私はとても魅力を感じます。ですから今回も、七役のうち「土手のお六」という毒婦の役が私には一番しっくりきました。
久松の奉公する店に、夫と共に死体を担いでタカリにやって来る二人−わざとらしくノロノロ喋る団十郎の夫の芝居がイイ合いの手となって、くぐもった年増の声でテンポよく啖呵を切る玉さんの口上がとてもよく引き立っていました。

「お染の七役」は花形女形の芸を楽しむ古い演目ですから、「変わり」の場面は勘九郎のテンポのいい早変わりに慣れた目からすると随分のんびりとしていて、変わりのスピーディーさ、面白さよりも、やはり「どう演じ分けるか」というところを見せるもの−のようでした。
けれどもやはり、もったりとした演出にもうひと工夫を凝らして、別役で「パッ」と登場することができていれば演じ分けもより鮮やかに、感動もひとしおだったろうなぁと残念に思われます。

「声」はとりわけ土手のお六がよございましたが、最後の浄瑠璃はやはり舞踏超一流の玉三郎、どの役とっても、動き、姿態(しな)、溜息の出るような素晴らしい踊りを見せてくれました、言う迄もなく。


盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)
幸四郎・菊五郎・時蔵
東京歌舞伎座−昼の部−
03/10/21

敬愛する四世鶴屋南北の作、そして、東海道四谷怪談と同じく忠臣蔵の裏ストーリたる「盟三五大切」−演目として今月一番観たかったのが、これです。

この話は、百両の御用金を紛失した咎で勘当され義士の資格を失った不破数衛門と芸者・小万、その夫三五郎の物語で、失われた百両の補填を巡って皮肉で陰惨な「殺し」が起ります。
話を要約すると、世を忍んで薩摩源五兵衛と名乗っていた数衛門が叔父に用立て手もらった百両を小万と三五郎夫婦が騙し取り、怒った数衛門は彼等と間違えて無関係な五人を斬り殺し、その後、小万と嬰児も嬲り殺すという、陰惨極まりない物語です。しかも、実は三五郎と小万は親の主筋にあたる顔知らぬ不破数衛門に金を用立てる為に源五兵衛から百両を騙し取ったので、つまりは金が廻り道をしたばっかりに起った「真の忠義者が主に嬲り殺される」という救いのない悲劇な訳です。

主を騙していた真実を知り腹を切った三五郎を残し、数衛門が晴れやかに義士に加わって旅立ってゆく幕切れは「東海道四谷怪談」と極めて対蹠的です。
四谷怪談の『民谷伊右衛門 』というキャラクターの性格について、私の直感的に分析するところは「この男は悪ではなく、男の弱さの権化である」というもので、実際、伊藤のお槙がお岩に毒を盛ったことを「見逃した」という受動的な悪事以外、お岩の霊に運命を狂わされる以前、この男はそんなに悪人ではないのです(御用金横領や四谷左門殺しは、どちらかというとこの男の「男としての弱さ」に起因するものだと私は考えます。伊右衛門についての詳しい分析は、またの機会に)。
それに比べ、この『薩摩源五兵衛=不破数衛門』は、自らの色の欲のために叔父から与えられた百両を小万に注ぎ込み、騙されていたことを知ると腑抜けな自分の行状は棚に上げて逆恨み、執拗に復讐を計って大勢を惨殺するという、伊右衛門どころではない非常に自己中心的な、暴力的な、まさに「色悪」に相違ありません。

しかし、 伊右衛門は仇として討たれ、数衛門は義士として身を立てます。
そこにはそれこそ、勧善懲悪も道理も因果ありません。弱い男の自己破滅と、非道な男の名誉回復、不条理で非情な二つの浮き沈みが、ここにはただ「ある」だけなのです。

『忠臣蔵』の陽のあたる世界の裏の、「義」の世界に加われず身を沈めていった人々の生々しい苦界を『東海道四谷怪談』で見事に描くのみならず、もうひとつの義士の裏の物語をそこに添えた四世南北は、やはり通り一遍の劇作者ではないとますます尊敬を深めた「盟三五大切」でありました。


 
 
 


国立は、わざとなのか、それとも掛けるべき時期が単純にカブってしまうのか、数カ月前の歌舞伎座の演目と同じものを掛けることが多いように思います。
役者や幕選び、解釈の視点が全く違うので、同じ演目を観分けられるのはとても興味深く、また、お固いイメージの国立の方がどちらかと言うと捻りを効かせた変化球を投げてくるところが結構、面白い。
たとえば昨年末の「忠臣蔵」、両劇場とも昼・夜通しの大公演でしたが、歌舞伎座が団十郎・玉三郎・勘九郎・吉右衛門・雁次郎をはじめとする、まるで大映時代劇のようなオールスター公演であったのに対し、国立は「雁次郎の主要七役」という、一人の役者の芸の極致を感じさせるような「捻りある」公演でした(両公演とも良かったですが、観劇後に「観ているだけでも疲れたのに、八時間も一人で演った雁次郎はスゴイ」という感動の余韻を与えた点において、国立の勝ちだったでしょうか)。

さて、 今回の河内山「=天衣紛上野初花 (くもにまごううえののはつはな )」も、九月に歌舞伎座で吉右衛門がお家芸として披露し、大好評を博していた演目です。それを翌々月に、兄の幸四郎に演らせるのですから、これまた国立的な、ヒトクセある変化球です。
吉右衛門の方を観ていないので実際に比べてどうこう言う訳ではありませんが、この変化球においては、吉右衛門の「直球」の方がよかったのではないかなぁという感想を、今回私はもちました(実際の比較ではなく、あくまでイメージの上でです)。

御存じ、河内山はやくざな御数寄屋坊主、横恋慕の殿様に屋敷に拉致された質屋の一人娘の救出を金で請け負い、寛永寺の高僧になりすまして大名屋敷に乗込んでゆく−という男です。
河内山は囚われの娘を知恵と豪気で救出しますが、それは大親分・幡随院長兵衛や火消しの組頭・新門辰五郎のような義理人情ある侠気のヒロイックな行為ではなく、金を借りに行った質屋で儲け話を聞き付け、これ幸いにビジネスとして「人質救出請負」話を持ちかけるのです。
結局、河内山は約束を果たし娘を救けて、大名屋敷に「馬鹿ぁめ」と捨て台詞を吐いて意気揚々と引き上げるので、結果的には「市井人のヒーロー」的な存在に決着するのですが、その動機においては、どちらかというと「ダーク・ヒーロー」的な役所です(ビジネスとはいえ、武士をペテンにかけるという命懸けの仕事をするのですから、その点、彼の行為にはやましいようなところがあるわけではありません)。

そんな、侠気一筋縄ではゆかない、けれどもセコくてきたないただの「悪」というわけでもない、豪気と知恵のあるやくざ坊主を演るのに、やはり幸四郎の雰囲気はたおやかで上品すぎた−というのが今回一番感じた所です。
空想の舞台で演じさせれば、この河内山のもつダーク・ヒーローの雰囲気は、線の太い吉右衛門の方にしっくりとなじむところが大きく、その点、歌舞伎座の吉右衛門公演は私のイメージにおいて(恐らく多くの人々にとっても)「直球」な訳です。けれども、芝居を愛するスキ者の習性というのは、捻りの効かせた「変化球」にも心動かされ、そのミス・マッチから生じる、その役所の新しい一面に大いに期待するという性質のものですので、今回も、「幸四郎はどんな河内山で吉右衛門に対するか」ということが、私が国立に足を運んだ第一の理由でありました。

しかしやはり、河内山はあくまで線の太い、図太い、腹の座った男であって、それ以外の解釈というのは存在しないような、単純明快な役所のようです。
声の甲高い、すっきりした色男の幸四郎が「地の河内山」と「河内山が演ずる高僧」とを演じると、河内山の「地」よりも 「高僧の芝居」の方が、どうしても見事に馴染んでしまい、別の二役をやっているのか、あるいは「河内山はそもそも品位の高い人格者で、(ちりめん問屋の隠居に変装した水戸黄門のように)市井の人々の間ではやくざな風を装っているが、その真の姿によって横暴な大名に天誅を与える」という『河内山高僧説』とでもいうような、奇妙に歪んだ二重の変装のように見えてしまってなりません。
しかしやはり、「河内山」はあくまで線の太い、図太い、腹の座った男であって、それ以上でもそれ以下でもない、単純明快な物語なので、『河内山高僧説』なんて気持ちの悪いものはあり得ないし、やっぱり、これは単に幸四郎の適・不適というレベルの話に帰着するものであったろうと思います。

つまりは、 河内山に幸四郎は不適だった−という事ですが、しかし、この舞台で幸四郎が河内山ともう一役演っていた「直侍(なおざむらい)」の方は、私の知る限り、幸四郎の今まで一番のハマリ役でありました。

「直侍」は河内山の仲間、別に腹蔵するところもない単に身持ちの悪い色男で、花魁との駆け落ちに失敗し、弟分の「暗闇の丑松」に密告され、雪の中をこけつまろびつ逃げてゆく−という後半の物語は、幸四郎のもつなんともいえない儚い色気が、これ以上はないというほどしっくりと馴染んだ名演でした。
身を持ち崩した色男の成れの果て、みすぼらしくやつれた直侍がボロ傘をさして雪の中を寒そうに歩く様、雪をまき散らしながら追っ手からなんとか逃れる大詰の捕り物、これぞ幸四郎の「適」です。

河内山や、薩摩源五(先月の『盟三五大切』)のような腹蔵ある「芯のある強さ」という役所の性情は、どうやらこの人の独特の雰囲気を損なってしまい、むしろ直侍のような「色男であるだけ」という、さほど中身のない役所こそ、この人の良さを味わうのに丁度よい器になる−そんな不思議な適・不適も、どうやらこの世にはあるようです。


 

 


03/7/9 
「マクベス」
 サードステージ 
 三百人劇場 


 03/8/27 
「牡丹灯籠」
 八月納涼歌舞伎 
 東京歌舞伎座 
 −および 
 日本の怪談について−
 

 03/9/19 
 「nocturne」
 維新派 
 新国立中劇場 

03/10/4 
 「トスカ」
 プラハ国立劇場 
 東京文化会館 
 −トスカの二幕について 


 03/10/31 
 十月の歌舞伎 
 寸評三本 


 03/11/19 
 「天衣紛上野初花」
幸四郎の河内山 
 国立大劇場 


 03/12/3(初日)
 二蓋笠柳生実記 
 菊五郎・菊之助・團蔵 
 国立大劇場 

 

 04/1/31 
 「鳴神・俊寛」
  二本の日本のオペラ 
 新国立オペラ劇場 



 


  03/7/9 
「マクベス」
 サードステージ 
 三百人劇場 


 03/8/27 
「牡丹灯籠」
 八月納涼歌舞伎 
 東京歌舞伎座 
 −および 
 日本の怪談について−


 03/9/19  
 「nocturne」
 維新派 
 新国立中劇場  

 03/10/4 
 「トスカ」
 プラハ国立劇場 
 東京文化会館 
 −トスカの二幕について 


 03/10/31 
 十月の歌舞伎 
 寸評三本 

 03/11/19 
「天衣紛上野初花」
  幸四郎の河内山 
 国立大劇場
 



 03/12/3(初日) 
 二蓋笠柳生実記 
 菊五郎・菊之助・團蔵 
 国立大劇場 

 04/1/31 
 「鳴神・俊寛」
  二本の日本のオペラ 
 新国立オペラ劇場 





 


この夏「パイレーツ・オブ・カリビアン」は御覧になられたでしょうか?
アドベンチャーあり、ロマンスあり、スペクタクルあり、そして、ジョニ・デップの個性的な名演ありという、とりたてて名作という訳ではなけれどとにかく面白い、「これぞハリウッド!!」と言えるなかなかの痛快娯楽大作でした。
今回の「二蓋笠柳生実記」の観劇後感は、歌舞伎としては非常に珍しく、その「ハリウッド映画を観た後」の感じに非常に近いものだったと言えましょう。

将軍家剣術指南役・柳生但馬守の三男坊又十郎(兄は死に今や一人息子)は家柄にもかかわらず武道を厭い酒色を愛でるたよりのない風流者。うかうかと父の愛妾と深い仲になってしまった又十郎は不義が露見し、勘当され家を追い出されてしまいます。一緒に追い出された密通相手・お玉の実家にひとまず身を隠した又十郎でしたが、朧月夜の光の下で自らの情けなさにハッと気付いて一念発起、武者修行の旅に出る決心をします。置き手紙に心乱したお玉も、必死になって又十郎の後を追います。

ぼんぼん育ちでおおらかな又十郎は、道中の八枝重兵衛道場に何の気なく「柳生の子息」を名乗って逗留しますが、あまりの剣の腕前の粗末さゆえ偽物の「路銀がたり」と誤解され、一門に宿場はずれまでつまみ出され、よってたかっての打擲を受けてしまいます。あわや命までをというところ、又十郎に一目惚れした重兵衛の妹・芳の江に救われますが、様子を見にきた重兵衛は妹の情け乞いを制止して「愚かな偽物、口惜しければ腕を上げて復讐に来い」と又十郎を鉄扇で打擲、又十郎は武士の額に屈辱の傷を付けられてしまうのでした…。

−そのような前半から、七年間の修行を果たし大きく成長した又十郎と、又十郎の子を産み育てていたお玉との劇的な再会、そして、新影流奥義会得のためのお玉の自己犠牲(このくだりは歌舞伎にありがちな男たちの身勝手・酷薄な論理ですが)、紅葉散る秋山での天狗たちとの武者修行完成の手合わせ、八枝重兵衛・芳の江兄妹との再会、再勝負(敗れた重兵衛は又十郎を成長させるため敢えて屈辱を与えたことを明かす)と話が進み、最後には父・但馬守との御前試合で又十郎は二枚の笠を得物に勝負、勝利を収めた又十郎は父と和解、将軍家光から柳生家の跡取りを許されるという大団円を迎えます。

今回の「ハリウッド感」の理由の第一は、まず、ストーリーテリングが実に巧い−というところにあったと言えましょう。
「通し狂言」の場合どんな演目でも、ある程度はドラマチックで大河的なおもしろさが感じられるものですが、特にこの演目は「又十郎の成長譚」という軸が非常に明確に、「上手な連続TVアニメ」級にしっかりと据えられていて、それが映画のようにテンポよく、劇画のように様々に魅力的な登場人物を配置して、ストーリーを見事にクライマックスへと盛り上げてゆきました。
又十郎以外の登場人物のキャラクターもかなり丁寧に描かれており、但馬守の一人息子への愛情と父としての厳しさ、八枝重兵衛の潔い人柄と情義、その他、大久保彦三衛門や将軍家光、隠棲の達人磯端萬蔵、柳生家老萩原惣兵衛、八枝高弟当六に至るまで、それぞれがしっかりとその存在を主張するような「出されるべくして出された」キャラクターとして成立し、主人公の周囲を固め、しっかりとした物語世界を築いていました。

全体として完結するドラマチックなストーリーということを、恐らく非常に意識して書かれたこの本は、部分的に演じられることをそもそもの前提に書かれた「名場面の寄集め」的な普通の歌舞伎の通し狂言とは明らかに異なっており、それが実に新鮮な「ハリウッド」的な感動を感じさせたのでしょう。

第二に、場面のメリハリが効いていて見せ場が際立っていたということが、この演目の娯楽大作的な巧さの所以であった−と言えましょう。
上に書いたような山あり谷ありのストーリーの、「谷」の部分には、静謐な月明りの場面や雪山奥の隠棲の達人の庵、御前試合の前夜に茶室で老境を思う但馬守の姿などの静かな場が置かれ、「山」の部分には、秋山での天狗たちとの大立ち回り、華やかな江戸城内での御前試合など、見た目にも非常にインパクトのある、映画的な山場が置かれていました。
特に「天狗の場」は、歌舞伎には珍しく開幕後の劇場の出入りを禁じ、照明を真っ暗にし、たなびく水色の幕前で立ち三味線と立ち義太夫の前置き、それが終わったと同時に幕が落ちてパッと明転、目にも鮮やかな紅葉舞う舞台が現れ、歌舞伎では聞いたこともないようなシンバルや打楽器のド派手な鳴りものの「サウンドトラック」が鳴り響く中、見違えるような達人に成長した又十郎が次々に現れる烏天狗たちとアクロバティックな大立ち回りを見せるという、今までに見たこともないような新鮮かつシヨッキングな山場でした。
この明治時代の演目が、最新のスーパー歌舞伎にも勝るとも劣らぬストーリーテリングとスペクタクルを見せるのですから、その巧さは並のものではありません。

そして第三に(これが最も重要なことだったかもしれませんが)、役者の演技が型にはまったような惰性の芝居ではなく、実によく解釈された見事な「巧い」ものであったということ−それが今回の成功の根本となるところであったと言えましょう。

又十郎役の菊五郎は、普段のキリリとした表情からは想像も出来ないほどの「うつけ」ぶりで最初舞台に登場します。それが徐々に成長してゆくのですが、武者修行の旅に出たあたりまではまだ地金の「うつけ」が残っており、重兵衛から屈辱を受け怒りに震えてから、後半見事に豹変する−という丁寧な芝居を見せます。
たとえば、『一條大蔵卿』は「一物ある男」が「うつけ」の振りをしているのですから、ある程度は「うつけ」の下に真の姿が匂っていてもかまわないのですが、この又十郎の場合、最初は完全な「うつけ」でなければ成長譚としての面白みがないわけで、その点、前半から後半への菊五郎の見事な変貌ぶりは実にドラマチックで、一人の青年の成長を完璧に演じることができていたと思います。

敵役の八枝重兵衛も、筋だけで見るならば、再試合に負けた後「実は前々から柳生の子息だと判っていたが奮起させるためにわざと侮辱を与えた」と言う段はいささか言い訳がましく思われなくもないのですが、團蔵が風格あり、誠実な人柄を感じさせる重兵衛像をきっちりと演じていたので、重兵衛は善役としてしっかりと物語りに活きていました。

富十郎と田之助はいささか台詞がおぼつかなく残念でしたが、それは名優の体調不良と初日ゆえのことと許容できる程度ではありました(他があまりに素晴らしかったから、さほど気にはならなかったというところです)。

あと一人、褒めちぎっておきたいところは芳の江役の菊之助。
「女武道」というにはあまりに若々しく恥じらいがちな、「姫武道」とでもいう役所でしょうか、道場主の妹なので自然武術のセンスがあり、門弟たちなど簡単にひねり飛ばしてしまう手強い姫なのですが、惚れた又十郎の前でその様を恥じらい、強さの後に非常に愛くるしい姿態(しな)を見せます。
武道の凛々しさと、恥じらう愛くるしさ、それぞれがとても様になっていて、とっても「かわいい」。
きれい、美しい、という感動は今までもありましたが、女形に「かわいい」と思わされたのは初めてで、その点も今回、新たな感動でありました。


いささか全体的に大絶賛し過ぎてしまった感もあります。
あまりに「良い、良い」と先に言われてしまうと、その分期待が膨らみ過ぎて感動が薄れてしまう恐れもありますので、もしお運びの予定の方はそんなに期待をせずに御覧下さい。
しかし、お運びになる値打ちは十分にある、今回の師走興行でした。



 
 
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