御存知でしたか?
スーパーの実演試食の目的は
何より「味を知ってもらう」
ことなんだそうです。

慎み深い皆さんも、これからは
遠慮なく Let's tasting !!

 

 

 きっかけ? 
 執筆歴 

 Talk about 
「ドン・ジョヴァンニ」(1997) 
 本編−第一章− 

 Talk about 
「マダマ・バタフライ」(2000)
  
 本編−第一章− 

 Talk about 
「聖徳太子」(2001〜2003)
 
 本編−序部


 


私はいつから文学を志すようになったのでしょう。
1997年、処女作の中編「ドン・ジョバンニ」の筆を執るまで、論文やレポートなどの文章はそれなりの分量 を書いてきてはいましたが、小説の習作の様なものは一切書いたことがありませんでした。
処女作の第一筆がプルーストのエピグラム(*)から始まっているように、それまでの文学部でのフランス文学研究(そんなに真面 目にやっていたわけではありませんが)が土台になっていることは明らかなのですが、では、なぜ文学部に入ったかというと、はっきりとした動機があったわけではありません。今となっては「文学・哲学は人間にとって最も重要な実学である」ということを確信し、断言することができますが、高校時代にそこまでは確信していなかったように記憶します。しかし、大学は全て「文学部」だけを受験したので、どうやらなりゆきで文学部生になったわけでもないようです。
素晴らしい国語の恩師との出会いは、確かに私が文学部に進んだ一因でありますが、クラスメイト全員が望んで文学部に進んだわけではなく(むしろ私だけだった)、また、中学校に進む前、モノゴコロ着いた時にはすでに、何ら根拠も実績もないのに「自分は小説を書く」という漠然とした直感をもっていました。
河上雅哉の「雅哉」という筆名も、実は赤ん坊の頃、戸籍に届け出た名前が画数上良くないということで通 称として今までずっと使っていたものなので、私にとってはこっちの方が本名に等しいというような筆名です。ある意味、生まれながらにして筆名を持っていたと、考えれば考えられなくもありません。

ここまで遡ると、 もう、一歩間違えれば思い込みの世界で、むしろ他人さまからはそう思われても仕方あるまい…という客観的視点も、私は一応持ち合わせています(笑)。
けれど、こうやって文学への志のきっかけを遡るたび、私の文学への確信は、よほどタチ悪く偶然に仕組まれた「思い込み」なのか、あるいはいわゆる「宿命」とでも言うべきものなのかと、そのどちらかに帰結せざるを得ないような、運命的な人生経路や巡り合わせ、挿話によってここまでやって来たように思います。

 
(*)エピグラム=小説などの冒頭に引用される一文
 


さて、作品についてですが、処女作から7年間、プルーストの論文を含め、現在までに6本の作品を河上雅哉は執筆しています。

「日々と嘘 あるいは ドン・ジョバンニ」
「存在と失われた時間」
「幻の女 あるいは マダマ・バタフライ」
叙事詩 聖徳太子
「第一部 神代の残韻」
「第二部 蘇我の人々」
「第三部 大和の黎明」

約一年一本のペース、かなり遅筆なタイプです(-_-;)。

以下、それぞれの作品をご紹介がてら『作家、自作を語る』的な解説を少々と、それぞれの作品の冒頭一章程度をお読みいただけるように新規ウインドウで開くリンクをご用意しました。
「自作小説を公開する」という趣旨のホームページではないので、作品全てをお読みいただけないのは申し訳ないのですが、 許される限り、キリの良いところまで、適量を掲載いたしますので、この『河上雅哉』というのがどんなものをもって『文学』と言っているのか、是非ご試食頂ければと思います。
家に居ながら、お茶を片手に、どうぞパラパラと立ち読みしていって下さい。


 

 きっかけ? 
 執筆歴 

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「ドン・ジョヴァンニ」(1997) 
 本編−第一章− 

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「マダマ・バタフライ」(2000)
  
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「聖徳太子」(2001〜2003)
 
 本編−序部 

 


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「ドン・ジョヴァンニ」(1997)
 
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「マダマ・バタフライ」(2000)
  
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「聖徳太子」(2001〜2003)
 
 本編−序部 

 


●フィクションにおけるレアリテ(虚構における現実性)

いかに写実主義、現実主義であろうとも「小説」は絶対的に虚構(フィクション)であり、決して現実(ノン・フィクションあるいはレアル)たることはありません。現実ではない虚構の中で、冗漫な写 実主義に堕することなく、いかにレアリテを実現するか?−その「小説自体の虚構性と現実」という命題と「現実(日々)の虚構性(嘘)」というテーマにダブルで挑んだのが、この、私の処女作品です。
モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」に題名およびドラマツルギー(劇構成の基本展開)を仮託し、その既存のフィクションに「虚構とてしの小説」の部分を負ってもらうことによって、「ドン・ジョヴァンニの物語のような」状況におちいった登場人物たちのごくありふれた修羅場(?)の一場面 を描きだす。
それは、嘘っぽくない、よりドラマ性の低い「虚構」によって小説に「レアル」を求める写 実主義の手法とは正反対の、「虚構」を主旋律として確信的に存在させることによって「現実」と「虚構」の狭間に存在するものとしての「レアル」を描きだそうという試みであり、私がこの命題に挑むにあたって導き出した劇作法です。

●ものがたり
オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を愛する主人公の『彼』には複数の恋人がいた。 まるで物語のような偶然によって、ある日『彼』の部屋で女たちが鉢合わせてしまう。一人の女とその婚約者、そして、後からやって来た別 の女…それぞれの「現実」を突きつけられた『彼』は自らの恋愛論、そして「ドン・ジョヴァンニ」について語りはじめる。

●見られつつ、見るということ

世界を認識する主体である「わたし」は「見る者」であると同時に、他者から「見られるもの」でもあります。そして、「わたし」は「わたし」自身をも「見て」います。それらの、投げ掛ける視点と、投げ掛けられる視点との間に生じるズレ。『彼』はそのズレを正すべく、「見られること・愛されること」に正直たろうとし、ドン・ジョヴァンニのようないくつもの虚構(嘘)を造り出してしまいます。
しかし、それは「見ること・自らのレアルを生きること」の放棄でしかなく、結局、この『「現実という虚構」への不敵なる挑戦者』は最終的に敗れさってしまうのです。


 

 
 



第一章
(別ウインドウで開きます)





 


●逆方向のまなざし

題名からも察せられるよう、第二作は前作と対になった作品です。
愛される「ドン・ジョヴァンニ」と、愛する「マダマ・バタフライ」。男と、女−。
しかし、この小説の主人公は女性ではありません。 前作と同じく、名前も明かされぬ 一人の男(少年)が主人公。違う点は『彼』という三人称ではなく『僕』という一人称で物語が進んでゆくということです。「愛されることの虚構的なレアリテ」から「愛することの虚構的なレアリテ」へと、前作と視線が逆向きになります。 二つの視点の物語が両方向からメビウス・リングのようにループするという構造を、私はこの二作品で試みたのです。

●ものがたり
高校最終学年の『僕』は、クラスメイトの「裕香(ゆうこ)」の姉、姿も見たことのない「初音」の歌声を音楽家の伯父の家で聞く。 オペラ「マダマ・バタフライ」の音楽的な陶酔・感動を体験したばかりの『僕』は、それに似た感情をその声に見出だし、偶然を装って彼女に会おうと試みる。しかしその試みは何度も失敗、いつのまにか、姉と会うために親しくしていた裕香の上に「初音のイメージ」が実を結んでゆく。ある夜『僕』は衝動的に裕香へ恋の告白をするが、予想に反して拒絶されてしまう。その瞬間から『僕』の裕香への思いは狂おしいドラマチックなものへと変貌してゆく…。

●恋愛と小説のドラマ性

恋愛の只中にいるとき、人はまるで物語の主人公のようにドラマチックなまなざしで「自分自身」と「世界(恋愛対象を中心とした)」を見ます。 そのレアルな恋愛のドラマ性と、恋愛小説の虚構のドラマとの決定的な違いは、第三者の視点からみて「そこに事件が起こっているかどうか」という一点に帰結します。
虚構の場合、それは第三者(読者)に見られるためのものですから、主人公は苦悩の末に身を引いたり、相手を殺したり、自殺したり、何らかの「これみよがしな」最後のアクションを完遂し物語を完成させます。 しかし、現実の恋愛のドラマの破綻の場において、問題は自分自身にとってのみの一大事ですので、「自らの絶望」という以外、外部に何ら事件は起こりません(ごくまれに、現実世界でも事件は起こりますが)。
事件が起こらなければ物語は完成しない。事件が起これば、嘘っぽく、レアリテが遠のく−。この作品では、終盤、物語を完成させるべき状況にあって、主人公は恋愛小説の結末にあるべき行動と徹底的に反した行動をとります。
つまり、大袈裟な事件は一切起こらないのです。『僕』の心の中だけで、蝶々さんは誰知られずに死に、美しき世界は終わり、「恋愛」というドラマはひっそりと幕を閉じるのです。現実において、誰しもにとってそうであるように。





 

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「マダマ・バタフライ」(2000)
 
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●日本精神の根源 

「日本精神」などと言うと、戦後世代の我々にはアレルゲンのように、なんだか胡散臭く感じられてしまいます。
しかし、それは本来ちっとも胡散臭いものなどではありません。「日本人である私は日本人である」というのはア・プリオリな自明のことで、元来そこには右も左も上も下もない「私」のアイデンティティーの前提の一つであり、それ以上でも、それ以下でもないものです。
「 私」の根源(ルーツ)としての 「日本」を定義する場合、領土や人種、言語などというカテゴリーはあくまで外周的な部分であって、やはり最も重要なものは、自らの思考の土壌たる「精神性の根本」でありましょう。
その土壌の最根底を一言でいうならば、それは独自の寛容な宗教観である、と私は考えます。
神仏祖先共に敬い、他者の信教も重んじる−そのような姿勢は現在の私たちにはごく自然な、日常意にも介さぬような感覚であるかもしれません。しかし、日本の黎明期、古代の混沌の世にあって、原始古来の「自然信仰」と外来の新教「仏教」を融和させ、現代にまで生き続ける独自の宗教観・精神的地盤を築くというのは並大抵の事業ではありません。それを成し遂げた聖徳太子は、世界史上最も成功した宗教改革者であり、以後の日本史・文化を決定した「分水嶺」であると私は考えます。

●ものがたり
「第一部 神代の残韻」
大王敏達の臨終に際し、それぞれの皇子の母たちや重臣たちは後継の胸算用を立てている。自らの子に王位を継がせたいと願う炊屋妃に、外戚の蘇我馬子は旧来の大勢力・排仏派の物部一門の反発を招かぬよう断念を促す。一方、子・厩戸皇子に王位を繋ぐため夫の橘豊日皇子を王位に就かせようと、間人妃は実弟の穴穂部皇子、泊瀬部皇子たちを牽制する。 しかし、当の厩戸皇子は他の命を殺生してまで「食べて、生きる」自らの存在に苦悩し、拒食の状態で宮に引き籠っていた…


●叙事詩という手法

時は神話と史劇の挟間、登場人物は古代の王家の人々、そして、テーマは日本精神の哲学的誕生史− そこにはそれ相応の文体が必要となります。
作者のお喋りや情景描写、余分なキャラクター設定などは削ぎ落とし、思考としての言語=「モノローグ」と、精神の対決としての「ダイアローグ」、そういった研ぎ澄まされた根本的な言語によって言語的建造物の構築を試みた結果、文体は必然的にこの叙事詩という手法となりました。
「戯曲」ではなくあえて「叙事詩」というのは、それが演劇の一要素たるものではなく、それが、それだけで完結された言語的建造物であって、外的な舞台ではなく内的な精神を舞台とするような、直接的に思索を喚起する「よまれるべきもの」であれという作者の希望によります。
文学の原初たるギリシア悲劇、プラトンの対話篇、シェイクスピアの史劇、それらに少しでも準ずる様な、日本初の日本語で書かれた叙事詩・日本の精神原点史を完成できればと、現在鋭意執筆中です。

※序部について
以下にご紹介する「序部」は、本編への導入部、現代と古代の中継点としての明治期の一場面です。
私が最も信をおいている演劇論『悲劇の死』の著者、ジョージ・スタイナー博士の悲劇論に従えば、このような「本編と時と場を違えた外周部分」は古典的悲劇・叙事詩にあってはならぬ余計なもので、私自身もこの「序部」を残すか否か思案を決めかねています。

しかし、緩衝的導入部として、突然古代の物語に突入するよりはこれもあれかしと、ひとまずは、ここにご紹介したいと思います。

 
 





序部
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