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●逆方向のまなざし
題名からも察せられるよう、第二作は前作と対になった作品です。
愛される「ドン・ジョヴァンニ」と、愛する「マダマ・バタフライ」。男と、女−。
しかし、この小説の主人公は女性ではありません。 前作と同じく、名前も明かされぬ
一人の男(少年)が主人公。違う点は『彼』という三人称ではなく『僕』という一人称で物語が進んでゆくということです。「愛されることの虚構的なレアリテ」から「愛することの虚構的なレアリテ」へと、前作と視線が逆向きになります。
二つの視点の物語が両方向からメビウス・リングのようにループするという構造を、私はこの二作品で試みたのです。
●ものがたり
高校最終学年の『僕』は、クラスメイトの「裕香(ゆうこ)」の姉、姿も見たことのない「初音」の歌声を音楽家の伯父の家で聞く。
オペラ「マダマ・バタフライ」の音楽的な陶酔・感動を体験したばかりの『僕』は、それに似た感情をその声に見出だし、偶然を装って彼女に会おうと試みる。しかしその試みは何度も失敗、いつのまにか、姉と会うために親しくしていた裕香の上に「初音のイメージ」が実を結んでゆく。ある夜『僕』は衝動的に裕香へ恋の告白をするが、予想に反して拒絶されてしまう。その瞬間から『僕』の裕香への思いは狂おしいドラマチックなものへと変貌してゆく…。
●恋愛と小説のドラマ性
恋愛の只中にいるとき、人はまるで物語の主人公のようにドラマチックなまなざしで「自分自身」と「世界(恋愛対象を中心とした)」を見ます。
そのレアルな恋愛のドラマ性と、恋愛小説の虚構のドラマとの決定的な違いは、第三者の視点からみて「そこに事件が起こっているかどうか」という一点に帰結します。
虚構の場合、それは第三者(読者)に見られるためのものですから、主人公は苦悩の末に身を引いたり、相手を殺したり、自殺したり、何らかの「これみよがしな」最後のアクションを完遂し物語を完成させます。
しかし、現実の恋愛のドラマの破綻の場において、問題は自分自身にとってのみの一大事ですので、「自らの絶望」という以外、外部に何ら事件は起こりません(ごくまれに、現実世界でも事件は起こりますが)。
事件が起こらなければ物語は完成しない。事件が起これば、嘘っぽく、レアリテが遠のく−。この作品では、終盤、物語を完成させるべき状況にあって、主人公は恋愛小説の結末にあるべき行動と徹底的に反した行動をとります。
つまり、大袈裟な事件は一切起こらないのです。『僕』の心の中だけで、蝶々さんは誰知られずに死に、美しき世界は終わり、「恋愛」というドラマはひっそりと幕を閉じるのです。現実において、誰しもにとってそうであるように。
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