「囚われの女」は、最初「ソドムとゴモラ 三」とされ、次篇の「囚われの女」は「ソドムとゴモラ 四」とされていた。その後プルーストは後半部における対なる二者をより強調するため、この二篇を「ソドムとゴモラ 三、第一部・第二部」という副題をつけ、本篇には「囚われの女」という題がつけられた。この篇は章分けされていない。
前篇の終わりにアルベルチーヌとの結婚を宣言した《私》は、パリの家で彼女との同棲生活を始める。《私》はもうほとんど彼女のことを愛しておらず、一緒にいても退屈だと感じている。しかし、そんな彼女の(一時的な)不在のときの喜びや、彼女への独占欲、嫉妬といった感情が、彼に「今までの恋愛とはまったく違った」欲望をもたらすのである。
嫉妬と疑惑から《私》はアルベルチーヌをなるべく家に閉じ込めるようにし、また、彼女が外出するときは一人で心配なので「花咲く乙女たち」の一人アンドレに頼んで行動を共にしてもらい、彼女からその日のアルベルチーヌの行動を逐一報告してもらうのである。このようにしてアルベルチーヌは「囚われの女」になるのである。
しかし、アルベルチーヌを束縛しながらも、《私》は彼女のことを自分の色々な楽しみ(他の女との別な楽しみや、ヴェネチアに旅発つといった楽しみ)を不当に奪う存在であると感じており、心のなかで《私》はつねに彼女との別れを想像しているのである。
プルーストはここで恋愛を「破局の可能性に限定されるもの」として、次のように描く。
一見甘美で無邪気な瞬間、そこには思い掛けない破局の可能性が積み上げられているのである。しかし、そのために恋の生活は他の如何なる生活にもありえないコントラストを示すのである。とてつもない幸福の時間を過ごした後で、突然(ソドムとゴモラの町をやきつくした・著者注)硫黄と松脂の炎が降り始めるのであるが、われわれはその不幸からなんら教訓を引きだすこともなく、苦しみしか飛び出すことのない火山の火口に、すぐまた家を再建してしまうのである。
次の一瞬一瞬につねに破局の可能性があり、しかし「すぐまた家を再建してしまう」-この恋愛の一つの本質は、死に限定された生のあり方に非常に共通するものである。
われわれは恋のただ中にいるとき、その恋の破局の可能性を普通考えはしないものである。しかし、。で考察した「死の無規定性(死はいつ来るかわからない)」に似て、破局はある日突然やってくるかもしれないものである。他人事として冷静に考えれば「破局がある日突然やってくるかもしれない」という可能性は当然のこととして理解することができるだろうが、人は恋愛のただ中にいるとき、程度の差こそあれ「恋愛の終わりの可能性」を忘れがちなものであり、その甘美な時間が「恋愛の終わりの可能性」に限定された、きわめてもろいものであるとは思いもしないのである。
ここではまた《私》が眠るアルベルチーヌを見ながら次のように考える場面が描かれるが、これも恋愛の本質についての非常に重要な描写である。
普段彼女が不在のときにしか私がもちえないあの夢見る力を、彼女が存在しているときに私が取り戻せるのは、(彼女が眠っている・著者注)この瞬間であった。彼女の眠りは、ある程度愛の可能性を現実化すると言える。つまり、私は一人のとき彼女のことを考えることはできても、彼女は不在なのだから彼女を占有することはできないし、彼女が目の前にいるときは、彼女とのおしゃべりに気をつかわなければならないので、私と彼女の関係は表面的なものになってしまう。しかし、彼女が眠っているときは、私には彼女に話し掛ける必要もないし、彼女に見られてもいないのだから、私は自分自身の表面にとどまって生きる必要はなかったのだ。
ここで《私》が言う「夢見る力」というのは、つまり「自分のもつ映像を相手に投げ掛ける」という恋愛のあり方の一面なのである。
今まで考察してきたように、現存在(人間)というのは「世界-内-存在」であって、自分のもつ意味や価値や欲望を外部に投げかけることによって、一つの世界を作り出す存在である。この現存在のあり方は「外からやってくる」とか「相手に根拠がある」とか思いがちの恋愛においても例外ではない。先に引用したように、恋愛では外部の女に先行して「頭のなかの人形」があるのであり、恋する人はその映像を相手に投げ掛けるのであって、これはすなはち「人間の外部に客観などというものははない」というのと同じことである。
しかし、では恋愛はたんなるエゴイスティックな幻想なのかというと、必ずしもそうとはいえない。先にも少し論じたように、「相手に映像を投げ掛ける」というのは恋愛の第一段階(基本的な本質)であって、そのもっとも深い本質は「相手との関係性」にあるのである。
現存在を限定するものとしてハイデガーは「死」と「時間」などをあげるが、フランス現象学の大御所J.P.サルトルはそこに「他者」というキーワードを強調する。人間の存在というのは他の存在とは違って外に意味を投げ掛ける存在である(=現存在)るから、人は自分にとっての生の世界をまちがいなく生きることができる。しかし、世界には自分一人が現存在としてあるのではなく、同じような現存在として「他者」がいるのである。自分が「他者」をある程度は感情や立場というものを認めながらも、結局は自分の意味を被投するもの(ハイデガーでいう用在。ちなみにサルトルは現存在のような存在の仕方を「即自」といい、用在のような存在のあり方を「対自」という)として見るように、「他者」の視線も自分という現存在を「用在」として見るのである。つまり、他者にとって自分は現存在たりえないのであって、そのような意味で、他者の視線は自分の現存在としての存在性をおびやかす-サルトルの言葉でいうならば「他者は無を分泌する」-のである。
しかし、恋人というのはそういった自己の存在をおびやかす「他者」ではなく、自己の存在を全肯定するような「他者」なのであって、そういった意味で、恋人の存在は自分が「他者」のうちでありのままの自分として存在できるような可能をもっているのである。その様な、自分の存在にに安心できるような他者との関係性、あるいは、他者の世界における自己実現の可能性というのも、恋愛の一つの本質なのである。
(プルーストは「失われた時を求めて」の主人公と恋人たち-アルベルチーヌ、ジルベルト-の恋愛において、このような「関係性」よりも「相手に映像を投げ掛ける」という恋愛のあり方を強調している。この小説において《私》はこのような「関係性」を恋人たちよりもむしろ母や祖母に見出しているのであって、プルーストは《私》がアルベルチーヌとの接吻に母の「お休みのキス」を想起するシーンなど、恋人と母の存在を結び付けるようなシーンを描くことによって、二つの恋愛の本質を暗に融合させているのである)
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《私》はアルベルチーヌが外出するたびに、彼女が自分に嘘をついて誰かと逢引しているのではないかと気を揉む。ある日、ヴェルデュラン家にでかけると言う彼女に疑惑を持った《私》は、彼女にヴェルデュラン家に行かないよう彼女を説得する。それを受け入れたアルベルチーヌはアンドレとトロカデに観劇に行くと言って出かけ《私》は安心するが、しばらくしてふと新聞を見るとその日のトロカデには女優レアが出演すると書かれていた。女優レアはアルベルチーヌがバルベックのカジノで鏡をとおして眺めていた女達の友人であり、アルベルチーヌとも顔見知りであるはずである。ふたたび疑惑にとらわれた《私》は彼女たちの接触を何としても阻止しなければならないと思い、すぐに使いをやって彼女を帰らせる。
《私》はもしアルベルチーヌがヴェルデュラン家に行っていたなら誰と会うことになっていたのかが気になり、その夜、アルベルチーヌには内緒でヴェルデュラン家を訪れる。ヴェルデュラン家ではシャルリュス男爵主催の音楽会(モレルに脚光を浴びさせるための音楽会である。ちなみにモレルはこのころジュピアンの姪と婚約しており、シャルリュス男爵は彼らの後見者になることによってモレルを自己の権力のうちにとどめようとしていた)が開かれており、《私》はそこでヴァントゥイユの七重奏を聞く。このヴァントゥイユの音楽は作曲家の死後に残された難解なスコアを、彼の娘の女友達が譜起こししたものであった。
ゴモラの恋人たち-ヴァントゥイユ孃とその女友達、ソドムの恋人たち-シャルリュス男爵とモレルの偶然の働きによって、《私》はここでコンブレーの老作曲家の「天才」を時を越えて直感するのである。この場面は「失われた時を求めて」の中でもっとも重要な場面の一つ-芸術について重要な考察がされる場面-であり、「スワンの恋」でスワンがヴァントゥイユのソナタを聴いた場面に対応もしている。(プルーストが長編に仕掛けたさまざまな仕掛けはこの場面で最初の融合をし、第七篇「見出された時」でふたたび融合する)
ここでのヴァントゥイユの音楽を形容する描写も素晴らしいものだが、それまで引用しているときりがないので、《私》がヴァントゥイユの音楽を聴きながら芸術や天才、宇宙や実存について考察する描写で特に重要なものだけを引いてみる。
ヴァントゥイユは何年も昔にこの世から消えていた。だが、彼が愛した楽器たちに囲まれて彼はなお無限の時にわたって、自分の生命の少なくとも一部分を残してゆくことが許されていた。しかし、それはただ彼の人間としての生命だけなのか? もし芸術が単なる実生活の延長にすぎないのならば、それはそのために何かを犠牲にする価値があるだろうか? そうなれば、芸術も人生と同じく非現実的なものになるのではなかろうか?-しかし、この七重奏を聴き入るにつれ、私はそうではないと確実に感じはじめていた。赤みを帯びたこの七重奏は、確かにあの白いソナタとは奇妙に異なっている。あの小楽曲がそれに答えていた臆病な問い掛けは、異様な約束を実現させよと力強く懇願するこの響きとは違っている。-その約束はこの世のものとも思われぬ声で短く響き渡って、海面に広がる暁の赤を思わせた。しかしそれにもかかわらず、これほど違った音楽は実は同じ要素でできているのだ。なぜなら、私たちに見分けることのできる一つの宇宙があって、その断片があちこちの屋敷や美術館のなかに分散しており、それがエスチールの宇宙-彼が見、彼がその中に生きた宇宙-を形成しているように、ヴァントゥイユの音楽は思いがけぬ一つの宇宙の計りしれない未知の色彩を、音から音、タッチからタッチへと繰り広げているのであり、ただ時をへだてて彼の作品を聴くためにその宇宙は分断されているのだから。
芸術は-たとえばヴァントゥイユやエスチールの芸術は、個人と呼ばれる世界-芸術なしでは私たちに絶対に知りえない世界-の内的構造のスペクトルの色として外部に示すことによって、現出せしめるのだろうか? 翼もまた一つの呼吸器官で、私たちに広大な空間を横切らせてくれるだろうが、それだけでは役には立つまい。なぜならたとえ私たちが火星や金星に行ったとしても、もし私たちが同じ感覚を維持していれば、その感覚は、私たちがそこで見る一切のものに地球上と同じ外観を与えてしまうだろうから。ただ一つの本当の旅行、若返りの泉を浴びる唯一の方法とは、新たな風景を求めることではなくて別な目をもつこと、一人の他人、いや、百人の他人の目で宇宙を眺めること、彼らがそれぞれに眺める百の世界、彼ら自身である百の世界を眺めることであろう。そして私たちは一人のエスチール、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげで、それが可能になるのである。私たちは文字どうり星から星へと飛びまわるのだ。
もし彼がソナタのいくつかは別にしても、生前に完成したものだけを残して死んだとしたら、彼について人の知りうることは、その本当の偉大さと比較したとき物の数にも入らなかったことだろう。それはたとえば ヴイクトル・ユゴーが、「ジャン王の野試合」や「「騎手の許嫁」「浴みするサラ」を書いただけで、「諸世紀伝説」や「静観詩集」を一つも書かずに死んだ場合と同じことだ。私たちが今、彼の本当の作品として見なしているのは、ちょうど人間の知覚が届かない宇宙、私たちがいかなるイメージも持ちえない宇宙のように、完全に潜在的で未知もものとして残ったことだろう。
大変な量の引用になってしまい申し訳ない。だが、ここに引いた文は読んでもらえればわかるだろうが、非常に重要なものばかりなのである(ちなみに、プルーストはこれらの引用に匹敵するほどの文章を「失われた時を求めて」の随所にちりばめているのだ。今回この本で引用できたのは、それらのごくごく一部にすぎないのである)。
ここでのプルーストの芸術論は芸術の表層であれこれ言うような芸術論とは違い、より芸術の核心に迫るものである。彼の芸術論の要旨を抽出するならば、まず、「人間の外部にコスモスなどなく、ただカオスのみがある」ということがその根底にある。
そこには何一つ意味のないカオスという外部に、現存在は意味を与えてコスモスに組み立てる。言語の領域に属した論理的体系としてのコスモスを組み立てるのが、すなはち科学者であり、言語の領域に属さない音楽的、感覚的なコスモスを組み立てるのが芸術家なのだとプルーストは言う。なるほどわれわれすべての現存在はカオスをコスモスに組み立てながら生きているが、偉大な科学者や天才芸術家はわれわれがそうそう発見できないような「独特な宇宙」をカオスのうちに見出し、それを知りうる可能性をわれわれに開いてくれるのである。そういった天才たちのものの見方をとおして、われわれは違った世界を感覚することができるのであって、それこそが芸術の価値なのである。
また、芸術とは「未知の女」であるとプルーストは言う。今まで見てきたように、プルーストは恋愛における「映像の投影性(頭の中人形がいて、その人形に外部の女をにさせようとする・本書40ページの引用文参照)」という一つの本質をこの小説で強調してきた。つまり、われわれの恋愛は概して「既知の女」を女のうちに探すようなものだというわけであるが、芸術から受ける感動はそのような「既知の再発見」ではなく、まさしくわれわれの心に直接訴えかけるような「未知なる衝撃」なのだというのである。ハイデガーはこれと同じように「気分(情状性)」というものがわれわれの心を襲うものであり、その根源的な根拠は「死の不安」であるというが、プルーストはその根拠を「カオスから浮かび上がる芸術」として定義づけるのであって、彼は死という現存在の知りえない無の世界(プルーストはそれを宇宙の果てとも言う)に、まだ見出されていない、あるいは失われた芸術という可能性の潜在を直感しているのである。(この直感はそれ自体きわめて芸術的、文学的なものであるが、「死の先、宇宙の果て」というのは今のところ人間には知りえない領域であって、それを論じるものは科学であれ、医学であれ、心理学であれ、宗教であれ、如何なる秩序だてにおいてもそれはオトギ話、仮定の域を追い越しえないのであるから、この直感を非現実的なものとして否定することはできないのである。むしろ私にとってこの直感は「プルーストという一人の天才芸術家-優れた知性と感性の持ち主-の目をとおして眺められた、新たなる感覚」として、他の如何なるオトギ話よりも興味深いオトギ話なのである)
こういった「芸術」は死と時間を追い越しうる一つの可能性として、後にこの物語の最後の結末を導きだすことになる。
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《私》のアルベルチーヌへの疑惑と不信は続き、《私》はますます彼女が自分の自由を奪う存在だと感じはじめる。《私》は彼女との別離をつねに考えるが、その反面、《私》の心には別離を恐れる気持ちがあるのも事実だった。嫉妬しているときは苦痛、嫉妬していないときは退屈、それがアルベルチーヌとの同棲生活だった。
《私》はそんな状態を何とかしてアルベルチーヌの気を惹こうと偽りの別れ話を持ち出したりするが、結局、アルベルチーヌとの別離にイニシアティブをとりたい(そうすると仲直りは簡単だろうし、自分が以後優位に立てるだろう)と考えた《私》は、ある朝、アルベルチーヌと別れて一人でヴェネチアに旅立つ決意をする。しかし、ガイドブックと時刻表を買いにいかせるためにフランソワーズを呼ぶと、彼女は「アルベルチーヌさまは荷物をまとめて朝早くに出ていかれました」と報告する。
その瞬間、《私》はアルベルチーヌに無関心だとばかり思っていた自分の心が、実はそうではなかったことに気付くのであった。
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