エベレストに登らなくとも
ジャングルに分け入らなくとも
書店に、それはあります

地図と案内書の用意は
どうぞ、当方にお任せを

 


プルーストについて話を始める前に、哲学と文学の『効能』について、もう少しお話をしておきたいと思います。 (プルーストにお急ぎの方は「ようやくプルーストの方へ」にジャンプなさって下さい)

「文学論と文学論論」でも書いたように、エポケーにはじまる『哲学』は、ものごとの本質をしっかりと見据え、先入観やことばの表層的イメージに引きずられにくくなるという点で、私たちの認識や自己イメージの了解の強度を強めてくれる、本来は大変便利で重要な学問(=ツール)です。
科学技術や医学、法律、経済などといった諸学よりも、それらを扱う人間の「生き方」を研究する哲学・文学こそ、実は最も第一義的な「実学」であるはずなのですが、 多くの人にとってその順位は全く逆で、哲学・文学こそ「虚学」の首魁のように思われているようです。

そうなってしまったのには、二つの理由があります。

一つは、二十世紀の科学技術の驚異的な発展により、 人々の関心と充足の基準が心的・内的環境から自らを取り巻く外的環境へと大きくシフトしたということ。
もう一つは、 多くの学者が特権的な難解な言葉を用いて「学問」という名の象牙の塔に安住し、外部の世界に自らの研究や思索を魅力ある方法で伝えるという仕事を怠っていたということ。

しかし現在、科学技術や高度成長がもたらした幸福や豊かさというものに「なんだかちがうぞ?」と、もはやほとんどの人が疑問を感じています。
今こそ哲学は不死鳥のように復活し、「生きるための根本実学」としての役割を果 たさねばなりません。


虚学と実学 
国語という科目 
師匠運 
本は開かれている 
でも、文学 
ようやくプルーストの方へ 
加古川本蔵 
 入口 

存在と失われた時間 


     
     

  虚学と実学
 国語という科目
 師匠運
 本は開かれている
 でも、文学
 ようやくプルーストの方へ
 加古川本蔵
 入口 

 存在と失われた時間 

 


ひとつ、哲学と同じく、近年私たちとの距離を遠ざけてしまったものの中に、学校教育における「国語」という科目があります。

「美しい日本語を残そう!」「若者の言葉づかいが乱れている!」などと目くじらを立て、旧守的、用法的な意味で国語を憂う手合とは私は別 物です。
確かに、現代のことばは昔のことばを知っている者にとっては美しくない、乱れている、と感じられる類のものかもしれません。しかし、言語の本質は用法であって、使われる場所にあわせ、時代にあわせ、きわめて流動的に「パロール」(*)は変わってゆくものです。

そういった用法的な意味合いではなくて、 自己と世界への認識のツールであるところの「ことば」の重要性を学び、その感度を高めるという、生徒・学生がもっとも(少なくとも「きっちり」)学ぶべき国語という教科が御座なりにされてきてしまったような風潮こそを、私は憂慮します。
いわゆる「受験競争の弊害」や「少年犯罪」といわれる、現代の学校教育のあり方が大きな原因とされる諸問題は「勉強しすぎたこと」が原因ではなく(ゆとり教育という浅薄な解決策は、更なる問題の原因となるでしょう)、 受験教科に重点を置きすぎ「まぁ、勉強しなくても日本語なんだから読めるでしょ」というノリで国語を軽視してきた悲しき受験生たちと、それが誤りであることを彼等に諭してあげなかった大人たちの過ちこそが大きな原因の一つであると、私には思えてなりません。
「ボランティア科目」や「道徳教育」なども、「国語」による思考力・想像力の鍛練が欠如したままでは、結局は形式だけの「虚学」にしかなり得ないでしょう。

しかし、国語という科目には厄介な一面があります。
それは「先生」の個人的な度量・人格・教養に大きく拠らざるを得ない教科であるということです…

 
     
     
 


教育法や指導要項にのっとって考えれば、教師によって内容が違ってくるようでは当然ダメなのでしょうし、相性というのもあるでしょうが、今までを振り返ると、私自身は「師匠運」に非常に恵まれていたとつくづく感じます。
特に国語に関して、中学時代の射手矢先生、高校時代の居細工先生の両恩師がいなければ、私は「文学(ことば)」の力と社会的な意義に、ここまで思いを致すことはなかったでしょう。

射手矢先生は、日本人が自らのことば「日本語」を用いてどのように自らを了解し、どのように世界観を造っててきたかを熟知なさった、真の意味の教養に溢れた「文学紳士」でした。
『小諸なる古城のほとり』を暗唱させ「意味や味わいなんて、今はそんなに考えなくてもいい。しかし、これを暗唱することで、いつか何かを感じられる『こころのひだ』をつくることができる」とおっしゃっていた先生は、自らの不治の病を「僕の体の中に雁(かり)が何羽も飛んでいるんだよ」と洒落つつ、子ども心にも感じ入るもののある堂々たる最期をもって、私に人の「生」と「死」の受け入れ方についてまでをも教えて下さいました。

居細工先生はノーネクタイのラフなスタイルでコテコテの大阪弁を駆使しつつ「質問があれば応える。なければ終わり」という独特の対話方式の授業をなさる、知的活力に溢れた先生でした。 教科書ガイドに従い、細かな板書をするオーソドックスな授業と比べ、一見とんでもなくアバウトなように見えるけれど、生徒の知的好奇心を刺激し、自らも真剣に思索・議論なさる、あれほどレベルの高い上等な授業はまず他ではあり得ないでしょう。
放課後も遅くまで一対一で私の小論文の添削をして下さり、様々な哲学の考え方を私に展開してみせても下さいました。 私の哲学的思考と論説文の文章作法の根本は居細工先生の指導によるものです。

私は、本当に恩師に恵まれました。

両先生との邂逅が私の人生を決めたと言っても過言ではないくらい、私は良き師に巡り合いました。まさに、盲亀の浮木の幸福です。
しかし、誰もがそうはいきません。むしろ人の話を聞いていると、良くない先生話の方が多いように思います。 幼少期に人格の低い先生に導かれることは、最大級の不運です。

けれど、あきらめてはいけません。
「運」ではなく自ら取捨選択することができ、そして、いつでも私たちに開かれている懐の深い「人生の師」が、
すぐ身近にいます…。

 

虚学と実学
 
国語という科目 
師匠運 
本は開かれている 
でも、文学 
ようやくプルーストの方へ 
加古川本蔵 
 入口 

存在と失われた時間 


     
     

 虚学と実学
 国語という科目
 師匠運
 本は開かれている
 でも、文学
 ようやくプルーストの方へ
 加古川本蔵
 入口 

 存在と失われた時間 

 
それこそ、「文学」です。

恩師運つたなく、どんなにひどい「先生」に巡り合おうとも「本」は誰に対しても公平に開かれています。恩師運が受け身の「運」であるのに対し、良き本との巡り合わせは自ら拓くことのできるまったく能動的なものです。
哲学の研究に生涯を捧げなくとも、難解な哲学書を読破せずとも、「文学」は私たちのすぐ身近にあります。

ただし、文学(日本の)も現代的な問題を抱えないわけではありません。
その問題は哲学の場合と同じく、外的要因と内的要因の二つの原因によるものです。

外的要因による問題として、今世紀大きく発展した「映像」がそれまで文学が担っていた「エンターティメントの要素」のお株を大いに奪ってしまった-ということがあります。
映画・テレビの魅力に対して、私は否定的に考えているわけではありませんし、そもそも、視覚的・聴覚的にうったえる「映像」の方がより幅の広い表現の手段をもっているのは当然のことでもあります。
そういった「映像」の魅力的な進歩に対して、「文学」が自らに進歩という視点をほとんどもたずにいたということこそが、より本質的な、内的要因による問題です。
私の考える文学とは、古典が創造してきた到達点を引き受けつつ新たな境地を切り拓いてゆくような、トラディショナルかつラディカルなもので、科学や諸学と同じく日進月歩してゆく性質をもっているべきものです。
しかし、「映像」の魅力に押された日本文学は自らの頭に「純」という冠を着け、何だか高級なもの・高尚なものという「言い訳」の防御を張り、孤高ぶり、『トラディショナル』のみにすがることによって自らの延命を図りました。あるいは、普遍的テーマを含有するという文学の本質を捨て、個別 的な特殊な設定によって読者の目を引くという『ラディカル』なだけの活路に走りました。
映像の長所であり、かつ弱点である「感覚にうったえる」という部分に対し、文学は直接イマジネーションに働きかけるものなのですから、そういった部分で「文学ならではの表現」というものを現代の文学は模索すべきであるのに(私見ですが)、 昨今の「文学」はほとんど映画の「原作本(=ストーリー)」でしかないような気がします。

映画から映像と音楽を取り除いただけのものだったら、そりゃ、映画を観るほうがイイに決まっています。

 
     
       




文学を勧めておいて、何だか文学のダメ出し大会になってしまいました(-_-;)。
けれど、ダメな部分をきっちり説明してからお勧めするのは、ちゃんとしたビジネスマンの基本です(笑)。

つまりは『本は自由に選べるけれど中にはダメなものもある』ということです。
それは何に関しても言える、当たり前のことです。

ここで大事なのは「ショーモナイもんに貴重な時間を費やすことは無駄 」ということ。 自分にとって面白くない、得るもののなさそうな本ならば途中で閉じ、本棚の飾りものにしてしまえばよいのです。本代がもったいないと思われるかもしれませんが、ショーモナイもんを忍耐して読み続け、結局時間を無駄 することの方が、絶対に損です。

けれど、忍耐強く色々と読まないことにはイイ本にも出会えないということも、また、ひとつの真理です。
同時代の文学は古典と違い評価が定まっていませんからちよっと難しいですが、そこは自分の判断や直感でもって、金山を掘り当てるつもりで頑張って下さい。 イイものも、必ずあります。
古典は手堅いので、まぁ、何を選んでも大失敗はないでしょう。

さてここで、
20世紀初頭、最もレイテストな古典-
それまでの文学の到達点であり、その後の文学の出発点たるべき金字塔-
マルセル・プルーストの畢生の大作
「失われた時を求めて」に、 ようやく話は進みます…。

 

虚学と実学
 
国語という科目 
師匠運 
本は開かれている 
でも、文学 
ようやくプルーストの方へ 
加古川本蔵 
 入口 

存在と失われた時間 


 
     
 

  虚学と実学
 国語という科目
 師匠運
 本は開かれている
 でも、文学 
 ようやくプルーストの方へ
 加古川本蔵
 入口 

 存在と失われた時間



ルセル・プルースト(1871〜1922)

世界の文学史にその名をとどめるマルセル・プルースト。洞察力を働かせ、一見些細と思えるような物事でも正確な細部描写 を行ったプルーストは偉大な作家・哲人として知られるようになります。その優れた観察力を高く評価した同時代人は、プルーストを「物事の隠れたメッセージを受け取る媒体」と称したものです。

-上記は万年筆のモンブラン、1999年の限定作家シリーズ「プルースト」のリーフレットより引用したプルースト賛です。
上の文章からわかることは、プルーストが「細部描写にすぐれた作家」だということですが、それは、彼が執拗に、緻密な「写 実的」描写にこだわった-という意味ではありません。
「コルク張りの防音部屋(執筆に集中するため)」 「継ぎ当てだらけの原稿(膨大に文章が膨らんで)」「男性使用人への愛」などといったエピーソードが先行し、彼の文章は病的に緻密な、女性的、神経質的なもとしてイメージされがちです。
しかし、ちゃんと読んでみると、彼の文章は一文がとてつもなく長いけれど実に論理的で、しっかりとした視点で事象を見据えており、かつ、その「私たちに新たな視点を呈示する」という意味において「緻密な」描写 から、大変優れた観察眼、審美眼と直感力をもった作家であることが理解できます。

「楽しみと日々」「ジャン=サントゥイユ」「サント=ブーウに物申す(評論)」などの小品(一般 的には長編というべき長さかもしれませんが)も存在しますが、何と言っても、プルーストの白眉は彼の人生を賭した大作「失われた時を求めて」をおいて他にありません。

しかし、本当に長いです。

…しかも、実は未完です。

 
 




「エ
エ〜!!、あんなに長い上に、しかも未完っ!?… 最 悪 」
…と思うのは、ちょっと待って下さい。

この作品があまりにも長大であったため、プルーストは最終篇の出版を待たず他界しました。
第五篇「囚われの女」以降はプルーストの死後、生前ほぼ完成していた原稿を整理して刊行に至ったという経緯をさしての「未完」という意味なので、物語・作品としてはちゃんと完結しています。
どうぞ、 ご安心下さい。

また、この作品は主人公(名前は一切出ず「私」という一人称で全篇語り通 される。自伝小説というわけではないが「私」はプルースト自身と了解される)が一冊の書物を書く決意をするところで終わるので、完全な意味では完成していないというこの作品の性質が、図らずも物語世界と「失われた時を求めて」という現実の書物をループさせてしまっているという、なんとも大きな意味での『完結』をみているのです(!)。

もう、ひとつの宇宙のような、壮大きわまりない作品です。

しかし、あまりにも壮大で、文章も一文がかなり長く、現代の日本人にはあんまりピンと来ない19世紀末フランスの社交界の描写 が延々続いたりするので、どんなにチャレンジ心に燃えていても下準備なくいきなり臨んでは、ほぼ確実に挫折します。 「いゃ、とりあえずチャレンジしてみる!」と言われても、私は加古川本蔵(*)となってお止めします。

もし、この「文学のエベレスト」に歩みを進めようとなさるなら、まずは鈴木道彦先生の抄訳版(集英社刊)で全体像をあらかじめ掴んでおくことを強くお勧めします。
「失われた時を求めて」の傑作たるゆえんの一つは、その完璧な構成にあります。鈴木先生の抄訳版は、その構成の要点となる部分、および特に優れた文章(表現において・哲学において)をきっちりと抜き出し、しかも大変読みやすい、逐語訳ではなく日本語として解りやすい翻訳になっています。

 

虚学と実学
 
国語という科目 
師匠運 
 本は開かれている 
でも、文学 
ようやくプルーストの方へ 
加古川本蔵 
 入口 

存在と失われた時間 




(*)加古川本蔵=「仮名手本忠臣蔵」の登場人物。桃井家々老。松の間で高師直(上野介)に切りつける塩谷判官(内匠頭)を後ろから羽交い締め、本懐を遂げさせなかった人物。

     

  虚学と実学
 国語という科目
 師匠運
 本は開かれている
 でも、文学
 ようやくプルーストの方へ
 加古川本蔵
 入口 

 存在と失われた時間 



あるいはまた、私の卒業論文『存在と失われた時間』(1998年作)も本作の全体の流れを明らかにする上で、ある程度はお役に立つかもしれません。

『存在と失われた時間』という題は、プルーストの「失われた時」と、ドイツの哲学者マルチン・ハイデガーの主著「存在と時間」をひっ掛けています。
「死」と「時間」による現存在<人間>の分析を試みたハイデガーの哲学はかなりの強度をもち、かつ大変魅力的な哲学であり、「失われた時を求めて」を哲学的に分析する場合の尺度としてかなり有用であると私は考えます。 また、「哲学」「文学」と方法は違っていても、この二者の導き出す現存在<人間>の分析は実にピントが合っており、両者それぞれをもってそれぞれを明らかにすることができれば-という動機をももって、私はこの論文を著しました。

敷居の高い大プルーストへの、多くの人々にとって幅広い入口になることを願い、「プルースト」も「ハイデガー」も知らない人が読んでも大丈夫であることを念頭に、なるべく「入門書」的な読物になるよう心掛けて本論は書かれています。 また、「失われた時を求めて概図=(ガイド)」という側面も持たせ、本作全体の詳細な要約にもなっています。

以下、この論文を順次、全文掲載していく予定でいます。
全文掲載完了。序文は「文学論と文学論論」に掲載)

分量がそれなりに多いので、徐々にアップしてゆくことになると思いますが、アップ済みのものは一篇から七篇までそれぞれのタイトル(下部は河上雅哉の論文におけるサブ・タイトル)をクリックしていただくと、別 ウインドウでシンプルなテキスト風のページが開かれます。
プリントアウトすると、より読みやすいかもしれません。それをお友達にプレゼントしたり、引用するのも歓迎ですが、そういった場合は一応ここをお読み下さい。


以下の文章は『失われた時を求めて』を、大雑把な「超」あらすじとしてではなく(普通の文学ガイドなどの「あらすじ」の分量では、この作品は深長すぎ、また、ストーリーよりもテーマ・構造こそが重要な作品であるので、どうしても誤解を招くような部分的・断片的なものにしかなり得ません)、全体の流れ・要点をそれなりに正確に把握するための重要な骨組みを網羅した「要約・概図」として、日本語で書かれた最も(長いけど)短い入門的な読みものではないかと思います。

では
Bon voyage, dans "L'etre et Du temps perdu" !!

 
 











CONTENTS



第一篇「スワン家の方へ」

現象学的な世界観の基礎づけ
記憶と欲望を尺度とする「私」と「物語=世界」の距離感についての考察




第二篇「花咲く乙女たちのかげに」

意味・価値のさまざまな転回
世界の流動性




第三篇「ゲルマントの方」

スワン家の物理的、空間的「方」に対する、概念的、時間的「ゲルマントの方」
空間と時間の基本的考察と死の本質直感



第四篇「ソドムとゴモラ」

物語の転回点
-「失われた時を求めて」全体の構造に関する考察-
対なる二者とその融合
ソドムとゴモラの恋愛



第五篇「囚われの女」

恋愛論
芸術論




第六篇「逃げさる女」

忘却






第七編「見出された時」

死と時間の現存在分析
死と時間を越えるもの

 







ページ上部にメニューボタンが表示されていない場合
こちらからトップページ・メニューへお進み下さい