第四篇「ソドムとゴモラ」

物語の転回点
-「失われた時を求めて」全体の構造に関する考察-
対なる二者とその融合
ソドムとゴモラの恋愛



 

「ソドムとゴモラ」は「失われた時を求めて」のちょうど中間地点にあたる、物語の前半部と後半部を分ける大きな転回点である。この篇の頭には「天の火から逃れたソドムの住民の末裔たる女=男達の最初の出現」という辞がつけられており、この篇は《私》がソドムとゴモラの町の復興をある人々のうちに見出す最初の第一歩になる。ソドムとゴモラとは言うまでもなく旧約聖書に登場する退廃と享楽の町-あまりの堕落ぶりに神の火によって燃えつくされた町-のことであり、本篇の「一」でなされるソドムの民=男性同性愛者の恋愛についての考察は、プルーストの恋愛についての直感を大いに明らかにするものである。(プルースト自身ソドミストであったが、彼の考察はソドミストとしての個別性にとどまるものではなく普遍的な恋愛の本質にまで迫るものである)
 「ソドムとゴモラ」は一と二に分けられており、一は初版では「ゲルマントの方」の巻末に収められていたごく短い部分である。ここでは「ゲルマントの方」の終盤でゲルマント公爵夫妻を待っていたときに《私》が目撃した、ある重大な発見について語られる。




 ゲルマント公爵夫妻を待ち伏せしていたとき、《私》はシャルリュス男爵がヴィルパリジ侯爵夫人邸の表戸口から出てくるところを目にする。《私》に眺められていることを知らず、太陽に照らされた自然な彼の姿に《私》はなぜか女性の姿を連想してしまう(どうして女性を連想してしまったのかはこの直後に《私》の理解するところとなる)。シャルリュス男爵はゲルマント邸の中庭を歩いているときにゲルマント邸の一角でチョッキ屋を営む中年男ジュピアンと出くわすが(普段シャルリュス男爵は午後遅くにやっ来るので、今までジュピアンとは会ったことがなかったのだった)、そのとたん彼の目はジュピアンに釘付けになり、ジュピアンも彼をじっと見つめかえす。シャルリュス男爵は瞳の美しさを強調するように虚空を見つめ、こっけいな、艶めかしい様子を見せる。彼とは対照的にジュピアンは腰に手をあてがい、尻を突きだし、「みつ蜂に対して蘭の花がするような」色っぽい様子を見せる。
 《私》に見られていることも知らず、二人はちょっとした言葉を交わしてからジュピアンの店に入ってゆく。店のなかで何が起こっているのか気になった《私》はジュピアンの店の隣の空店舗に忍び込み、二人の様子をうかがう。するとジュピアンの店からは激しいうめき声と、それより一オクターヴ高い別のうめき声が聞こえてくる-つまり実は二人はソドミストで、会った瞬間に互いが同類であるということを嗅ぎ分けた二人は早くも性交渉を行っていたのである。
 そして《私》はソドミストの恋愛についての考察を展開する。彼らが孤独な存在であること、彼らが自己のうちに女性と男性の両方を見出しているということ、そして、彼らは愛に希望をかければこそ多くの困難や危険に耐えうるのに、その愛の可能性がほとんど閉ざされた恋人であるということ-を《私》は考え、ヴィニーの詩「サムソンの怒り」からつぎのような引用をする。

男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう


 この引用は恋愛の一つの本質を浮き彫りにするものである。「ソドムとゴモラ」のこの部分はソドミストの恋愛について語っている部分であるが、その考察は同性愛にとどまるものではなく恋愛というものの本質に迫るものがあるので、ここでは第五篇「囚われの女」で展開する恋愛論にさきがけて恋愛についての基本的な考察を少々行おうと思う。

 心理学や発生遺伝学では人間の性的志向性がナルシシズム、エディップ・コンプレクス(エレクトラ・コンプレクス)、ホモセクシュアル、ヘテロセクシュアルの順に「発達」してゆくと言う。色々なセクシュアリティーを「より発達している」とか「未進歩である」とか論ずるのは問題があり、ナンセンスであると思うが、この「発達」の段階がより自分に近いものからより遠いものにむかってゆくという性質をもっていることは非常に興味深い。何度も言及しているが、現存在にとっての世界というのは自己を中心とした意味と欲望の価値体系である。だから恋愛というのも相手にその根拠があるのではなく、自己のうちに根拠があり、つまり、恋愛は「外からやってくる」ものではなくて「内から発せられる」ものなのである。
 たとえば一人の女を美しいと言うとき、その女の実体が客観的に美しいのではなくて、その女が自分の内なる「心の中の美女」に似ている-自分の美の価値にかなう-ということなのである(このことは人には色々な好みがある-十人十色、蓼食う虫も好き好き-ということによって理解できるだろう)。プルーストは「ゲルマントの方」二の第二章で次のように語っている。

 恋はまずわれわれを外界の女と接する前に脳裏に浮かぶ女の人形と戯れさせるのであり、それは恋の恐ろしい欺瞞なのである。われわれにとってはこの人形だけが、意のままになり、占有することのできるただ一つのものなのであって、想像力の恣意性とともに回想の恣意性が作り上げたのがこの女の人形なのである。私が夢に見たバルベックと現実のバルベックが大きく違っていたのと同じく、その女はわざと作り上げられた創造物なのであり、その後われわれは現実の女をその創造物に似させようとして、大変な苦労を背負い込むことになるのである。

 ナルシシズム→エディップ・コンプレクス(エレクトラ・コンプレクス)→ホモセクシュアル→ヘテロセクシュアルの「発達」の構図は学としては胡散臭いが、恋愛が内から外にむかってゆくということの文学的な象徴としてはなかなか面白いものであり、「同性愛」も個別的なものとしてではなく普遍的なものとして扱うならば、「閉じられたものとしての恋愛」を文学的に象徴するよいテーマになりうるのである(昨今の作家ギベールやコラールが描く同性愛は個別の範囲を出ない陳腐な「物語」にすぎないのに対し、個別性から出発して普遍性を目指すような「文学者」プルーストは自己の同性愛という性質を普遍的な恋愛を考えるテーマにまで高めているのである)。そういった意味で「男と女は それぞれ 自分の場所で死ぬだろう」という引用は、「男はソドムをもち、女はゴモラをもたん」という男と男、女と女の同性愛に通じるだけではなく、男は男の中で、女は女のなかで完結した、閉じられたものとしての普遍的恋愛の構図にもつながるのである。
 しかしここで注意したいのは、恋愛はまったく自己完結してしまったものではない-ということである。なぜなら人間は相手の中での自分の存在というものを想定できる、自己を客体化することの可能な存在だからである。つまり恋愛は自己の美意識や欲望から出発するが、最終的には自己と他者の関係性における快楽を目標とするものになるのであり、閉じられたものを開こうとする努力もまた一つの恋愛の本質なのである。(日常世界で人々は恋愛が閉じられたものであるとは思わない。しかし本質的にはそれはやはり閉じられたものなのであり、ソドムとゴモラという「愛の可能性がほとんど閉ざされた恋人」は文学において、そういった恋愛の核心に迫りうる象徴的存在なのである)





 ここで述べておくべきことはもう一つある。それは「失われた時を求めて」全体の構造についてである。
 第四篇「ソドムとゴモラ」は全七篇のちょうど真ん中に当たる部分であり、物語を前半部と後半部に分ける転回点であるが、その篇の題名が「ソドムとゴモラ」という対になる二者を並置したものであるのは詩的には面白いものであり、物語の構成としてはかなり周到な、奥深いものである。
 「失われた時を求めて」の随所には対になる二者がちりばめられており、それはこの物語の全体的な構成における非常に重要な要素である。まず各篇の題名を見ると「スワン家の方へ」と「ゲルマントの方」、「囚われの女」と「逃げさる女」、そして「ソドムとゴモラ」はそれ自身が、各々対になっているのがわかる。そして、本書の。で考察したように「スワン家の方へ」と「ゲルマントの方」の二つには逆向きの散歩道であるということとともに「貴族-ブルジョワ・ユダヤ」「歴史的時間-個人的時間」「時間-空間」という対照がこめられており、後で見るように「囚われの女」と「逃げさる女」には「実際に囚われる女-男が頭の中囚えている女」「実際に逃げさる女-男の記憶から逃げさる(忘却される)女」という対照がこめられている。(そして「ソドムとゴモラ」をはさんでの前半部と後半部では、物語の展開の力点がそれぞれ《私》の外部と内部に置かれている)

 なぜプルーストは「失われた時を求めて」をこのような構成をしたのか?-私の考えるところではプルーストは自と他の関係性というものを主眼にこの小説を書いており(それはすなはち現象学的な主眼である)、その対なる二者-自と他、現存在と世界-を二元論的にではなく実存論的に(つまり現存在の認識を軸にして)、文学という方法を使って象徴的に融合させることをこの文学の哲学的テーマに設定したのではないか。
 文学は哲学と違って「イカナルオトギ話ヲモ述ベテハナラナイ」という鉄則をもたず、逆に「いかに魅力的なオトギ話をもちいて普遍に到達するか」ということを追及する領域である(普遍に到達しえないものは「文学」ではなく「物語」である)。プルーストはこの長編小説の全体にわたってさまざまな二項対立を配置し、それを最終的に融合させる-この小説の結末の一つを先に述べるならば、スワン家の娘ジルベルトとゲルマントの一族サン=ルーが結婚し子供をもうけることによって、《私》にとってまったく断絶していた二つの世界が一人の人間のうちに融合するのである-ことによって、象徴的な意味での「現存在と世界の融和」という文学的な大団円を紡ぎだすのである。
 この壮大なテーマこそが、プルースト文学の文学性を支える心柱であると私は考える。




 「ソドムとゴモラ」の後半部は四章にわかれており、一章と二章のあいだには「心情の間歇」という挿話が挿入されている。「心情の間歇」というのは「失われた時を求めて」のもともとの総題で、ここで描かれる「本当の祖母」の存在は現存在と世界・認識・記憶・時間の関係を美しく、切なく描き出すのである。


第一章

 招待されているのか、いないのか、結局よくわからないまま《私》はゲルマント大公夫人の夜会に出かける。ゲルマント大公邸の前で《私》はシャーテルロー公爵を見かけるが、彼も実はソドムの男である。《私》が夜会に現れ、ユイシエ(訪問者の名を大声で叫ぶ取次係)が《私》の名を告げると、ゲルマント大公夫人は席を立って《私》を迎えてくれる。それは身分の低い者への貴族的な思い遣りと優越感によるものなのだが、とにかく、スワン夫人のサロン、ヴィルパリジ侯爵夫人のサロン、ゲルマント侯爵夫人の晩餐会と社交界のレヴェルを上ってきた《私》にとって、この夜会に足を踏み入れることはひとつの勝利なのであった。
 ゲルマント大公夫人の夜会では《私》はシャンゼリゼで倒れた祖母を診てもらったE…教授に出あったり(祖母の死を聞いた彼は自分の診立てが間違っていなかったことを誇るような様子を見せる)、シャルリュス男爵にゲルマント大公への紹介を頼んで冷たく断られたり、どこかしら女性的なヴォーグベール侯爵と逆に男性的なその夫人の姿を眺めたりする。また、シャルリュス男爵は以前は同性愛者だったヴォーグベール侯爵にどこの誰がソドミストであるかというゴシップを面白がって話す(ソドミストは自分以外のソドミストをこき下ろすことによって自分への疑いを晴らすのである)。
 そうしているうちに夜会にはサン=トゥーヴェルト侯爵夫人やスワン、ゲルマント公爵夫妻などの歴々が次々と現れる。病身のスワンは自分が死ぬ前にゲルマント公爵夫人に妻と娘ひきあわせたいと思っているが、ゲルマント公爵夫人はスキャンダラスな女オデットに会おうとはしない。一方、ユダヤ人でドレフュス派のスワンに対して、ゲルマント大公は自分がドレフュス派に転向したことを告白し、大公夫人はドレフュスのためにミサをあげていたことを打ち明ける。(社交会での反ドレフュス派とドレフュス派の趨勢は徐々に逆転してゆく。そのことによって、後に社交界の勢力図は大きく書き換えられることになる)
 夜会を退席した《私》はゲルマント公爵夫妻の馬車に乗せてもらって家に帰る。その夜アルベルチーヌが彼の家にやって来ることになっていたので、《私》は彼女が来る前に帰っておきたかったのである。しかし、アルベルチーヌは電話で、遅いから今夜は特に用事がなければ行かないと告げてくる。彼女の言葉になんとなく嘘を感じた《私》は今日でなければだめだと言い、アルベルチーヌはやむを得ずやってくる。《私》は思わせぶりに初恋のジルベルトに手紙を書いていたようなふりをしてアルベルチーヌを迎え入れる。《私》は彼女への疑惑を問いただそうかとも思うが、夜も遅いのでてっとりばやく接吻を楽しむことにする。アルベルチーヌはもはや接吻を拒むどころか、それに快楽を感じているような様を見せるのだった。
心情の間歇
 《私》は二度目のバルベックにやって来る。少し前にサン=ルーからピュトビュス夫人の小間使い「ジョルジョーネ(ジョルジョーネの絵画から付けられたあだ名)」がゴモラの女であり、また性的に奔放であるという話を聞いた《私》は、主人とともにバルベックにやって来ている彼女に何とか接触したいと思っている。それはバルベックで別荘を借りているヴェルデュラン夫妻を訪問することとともに、今回のバルベック旅行の大きな理由であった。
 《私》を迎えるバルベック・グランドホテルの支配人は以前よりも愛想がよくなり「部屋の格が下がって恐縮」だと言うが、それは前回とおなじ部屋であり、彼にとっての《私》の評価が上がったことが理解される。
 到着第一日目の夜《私》は部屋で靴を脱ごうと身をかがめるが、その瞬間、彼の胸は「神々しい未知の存在に満たされ」、目から涙がはらはらとあふれ出る-その瞬間、《私》の心には祖母の記憶が間歇的に甦っていたのである。
 「あたかも時間には異なった系列が並行して存在しているかのように」、彼が身をかがめた瞬間は祖母が以前私の方に身をかがめた瞬間にぴったりと一致したのであり、祖母が死んで以来はじめて《私》は彼女のいきいきとした現実をふたたび見出したのである。《私》は以前のその瞬間に、祖母に会いたくて会いたくてたまらなかった欲求も思いだすが、今となっては壁を三度たたいても彼女はやってきてくれないことを《私》は知っているのだった。そして《私》は「死者は生きている」こと、時間というのが必ずしも一直線なものではないことを直感するのである。(これはこの物語の結論の先駆である)


第二章

 祖母を思う《私》の悲しみも徐々に薄れてゆき、《私》はふたたびバルベック滞在中のアルベルチーヌへの欲求を見出すようになる。もはや《私》はアルベルチーヌを愛していなかったので《私》の欲望は以前のようなものとは違って、嫉妬や独占欲によって生ずる種類のものであった。
 《私》がフランソワーズやホテルのエレベーターボーイに頼んでアルベルチーヌを呼んできてもらっても、彼女は来なかったり、来るのに異常に時間がかかったりして、《私》の疑惑をかき立てる。また、「おともだちとの約束があるから」と言って《私》の部屋を去ろうとするアルベルチーヌにその約束について色々質問すると、彼女のこたえは矛盾と嘘に満ちているのであった。(もしアルベルチーヌを本当に愛するようになったら、さまざまな苦悩が待ち受けているのだろうと《私》は思う)
 ある日、電車の故障のためにバルベック近郊のアンカルヴィルの駅で足止めを食った《私》は、そこで偶然出会ったコタール医師とともにカジノで暇を潰すことにする。そこはアルベルチーヌたち「花咲く乙女たち」がよく遊びに来る場所であり、その日も彼女たちはやって来てダンスを踊っていたが、コタールは彼女たちが乳房と乳房をぴったりとくっつけて踊っているさまを観察し、彼女らが性的な快楽を味わっていることを《私》に指摘する。また別の日、アルベルチーヌとともにカジノにいた《私》は、鏡をじっと見ている彼女に気付く。彼女の視線を追うと、その先には品行の悪い女達がいるのであった。
 このようにして《私》のアルベルチーヌへの疑惑は男のみならず女にまで広がってゆき、《私》は彼女に対して故意に意地悪な態度をとりはじめるようになる。
 数日後、アルベルチーヌは《私》の部屋に意地悪な態度についての文句を言いにやって来る。《私》は彼女の気を惹くために「花咲く乙女たち」の一人のアンドレに恋をしているという嘘の告白をし、彼女たちがゴモラの関係にあるのかどうかをたずねる。アルベルチーヌはその疑惑をきっぱりと否定し、そして、彼女と《私》は和解する。





 ある日《私》とアルベルチーヌはドンシエールのサン=ルーを訪問し、その帰りに駅で一時間ほど電車を待つことになる。そこで《私》は同じく電車を待つシャルリュス男爵に出会う。彼は、自分の親戚に当たる一人の軍楽隊付の軍人が向かいのホームにいるので呼んできてくれはしないかと《私》に頼む。依頼を引き受けた《私》はその軍人を呼びに行くが、その軍人は《私》の大叔父の従僕の息子のモレルだった(つまりシャルリュス男爵の親戚であるはずがないのである)。《私》は懐かしく思いモレルと歓談しようとするが、彼は自分の親の身分を思い出させる《私》をこころよく思わず、無愛想で横柄な態度を見せる。
 約束どうりモレルをシャルリュス男爵のところに連れていくと、男爵はモレルに「今夜音楽が聴きたくなったので五百フランで演奏しないか?」ともちかけるのだった。《私》はことの顛末が気になったが、シャルリュス男爵から大げさな別れの挨拶をされてしまうのでやむなく電車に乗り、電車出発する。その電車に乗るはずだったシャルリュス男爵は予定を変更してモレルとともにその駅に残った。(モレルへの滑稽で悲哀に満ちたシャルリュス男爵の恋の物語がここから始まるのである)
 またバルベックでは、《私》はヴェルデュラン夫妻の晩餐会におもむく。ヴェルデュラン夫妻はシーズン中、カンブルメール侯爵家のバルベックの館「ラ・ラスプリエール荘」を借りて、以前の「小さな党」(コタール、スワン、オデットのいた)を再結成しているのだった。《私》はそこに何人かの上流社交界の人々がやってくるという噂を聞いていたが、そこにやってくる貴族は館の持ち主のカンブルメール侯爵夫妻や、「ヴェルデュランのサロン・音楽の殿堂」のヴァイオリニストであるモレルを追い掛け回しているシャルリュス男爵ぐらいだった。このサロンの構成員はほとんどが下らないスノブ連中なので、ここでの会話や冗談はゲルマント家のそれ以上にくだらない、虚飾に満ちたものとして描かれる。


第三章

 ここでは特にシャルリュス男爵のモレルへの恋が描かれる。
 モレルは物質的にシャルリュス男爵にまったく依存していながらも、冷たい態度や不実で男爵を悲しませている。男爵は偽りの決闘の計画をモレルに伝えて彼の気を惹こうとしたり、モレルがゲルマント大公のお供で出入りしている娼館に忍び込んだりする。ここは「失われた時を求めて」の中でも際立って喜劇的な部分であり、非常に面白い部分であるので、是非本文のエンターテイメントとしての面白さを味わって欲しいところである。


第四章

 アルベルチーヌに飽きた《私》は、彼女との決定的な絶交の機会を待つばかりであった。《私》は母にアルベルチーヌとの結婚はおろか近々会うのもやめると言い、その決意に母は大変満足する。
 そんな状況のとき、ラ・ラスプリエール荘からバルベックへの帰る電車の中で《私》はアルベルチーヌがヴァントゥィユ孃とその女友達(「スワン家の方へ」で父の写真を冒涜して快楽を味わっていたゴモラの女達)と親しいこと、そして、近いうちに彼女らと旅行に行く計画があることを聞く。
 その計画を何としても阻止しなければならないと思った《私》はその夜、アルベルチーヌを自分の部屋に連れ込んで、パリに帰って自分と一緒に暮らそうと説き伏せる。

 そして、愛してもいないアルベルチーヌとの結婚を《私》は母に突然宣言し、物語は「失われた時を求めて」後半部に突入する。