| 第一篇「スワン家の方へ」 現象学的な世界観の基礎づけ 記憶と欲望を尺度とする「私」と「物語=世界」の距離感についての考察 |
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長らく、私は宵から床に就いていた。時には、蝋燭を消すや途端にまぶたがふさがり、「僕は眠るのだな」と思う間すらないこともあった。 この有名な冒頭から全七篇の長編小説「失われた時を求めて」は始まる。この小説は「スワンの恋」を除く全編にわたり〈Je〉という一人称で語られる。しかし、この〈Je〉=《私》の名前や、その時々の年齢などに関しては限定する描写 はほとんどなされない。ただ明らかにされることは《私》が文学を目指していること、コンブレーに親戚 が多いこと、パリに家があることぐらいである。物語の時代背景は、第七篇「見出された時」で第一次世界大戦が起こり、全編を通 してドレフュス事件が描かれるので十九世紀後半から二十世紀初頭だと考えてよいだろう。 第一部 コンブレー 眠りと目覚め、現在いる場所と過去にいた場所(の記憶)を行きつ戻りつしていた《私》は、幼少期を過ごした土地であり、彼の親戚 達-祖父母、祖母の従姉である大叔母、その娘のレオニ叔母、アドルフ大叔父など-が住んでいたコンブレーについての記憶を喚起し、その記憶を鳥瞰的に描き始める。 幼年期の《私》は繊細で依存症的である。彼が寝付かれぬ夜、彼の気が紛れるようにと家人は彼の寝室で幻灯を行ってくれる。ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンという女主人公が登場する中世の『黄金伝説』の幻灯は美しくはあったけれど、《私》の暮らし慣れた寝室のイメージ(そこが自分の存在する場所であるという確信)を揺るがすだけで、よりいっそう彼を悲しませるのである。 また、彼はママの「お休みのキス」がなくては安心して眠ることができなかった。一人で二階に寝に上がる彼の唯一の慰めが母のキスだった。キスをしてくれた母が寝室を去ろうとするとき、彼はいつも「もう一度キスして」と頼みたかったのだが、厳格な父母がそのような甘えすぎた要求を許しはしないだろうと《私》はいつもその望みを断念するのであった。(母のキスのもつ快楽と禁忌のイメージは、物語を通 じて何度も想起されることになる) しかし「お休みのキス」はしばしば来客によって中止されることがあった。コンブレーでの来客といえば大抵それは近所のスワン氏である。スワン氏はユダヤ人の株式仲介人の息子で、しかし、「ユダヤ人」であるにもかかわらず伊達な美術愛好家として上流社交界でもてはやされている人物である。(スワンは時の寵児として一流人に登りつめ、そして凋落してゆく人物であるが、軽薄な為人ではなく芸術を真に理解する可能性のあるシックな人物として描かれる。彼が凋落するのは、移ろいやすい社交界の価値基準のせいであり、後に見るオデットとの恋と不幸な結婚のせいである) ある夜、スワンの訪問のために「お休みのキス」なしに寝に上がらねばならなくなった《私》は召使のフランソワーズ(《私》一家がコンブレーに滞在するとき世話をしてくれる叔母づきの料理人)に母への伝言を頼むがかえって母の不興をかうことになり、母はやって来てはくれない。あまりの悲しみに階下に降りようとした彼は両親に見とがめられるが、気まぐれな父の寛大な処置によって、思いがけず母に添い寝をしてもらえることになる。その夜、ベッドでジョルジュ・サンドの小説『フランソワ・ル・シャンピ』を読み聞かせてくれる母は、その小説の主題である捨て子フランソワと継母マドレーヌとの恋愛描写 を読み飛ばしてしまうので《私》にはその物語がなんの話だかさっぱりわからぬ のであった。 「お休みのキス」と同じく、この一夜の安らぎは《私》の幸福の原風景となる。しかし注目すべきは、それが単に親子団欒の幸福としてではなく、恋愛の幸福の原風景として後に《私》に想起されることにある。『フランソワ・ル・シャンピ』にしろ、大女優ラ・ベルマが登場するたびに演ずるラシーヌの『フェードル』にしろ、母子の許されぬ 愛の物語が「失われた時を求めて」全篇を通じてさりげなく-しかし間違いなく意識的に-挿入されていることは大変興味深いことである。 生命の連鎖において母と子の関係は神聖であり、プラトニックなものである。しかしだからこそ、そこにほんの一縷でもエロティックな愛の可能性が生ずれば、聖なるものは限りなく冒涜され、その冒涜によって「禁忌破り」という概念的な快楽が惹き起こされるのである(「冒涜と快楽」、「嫉妬と愛情」、「失望と欲望」の因果 関係はこの小説の大きなテーマである)。だが、この「母犯し」の感情がプルーストの特殊なエディップ・コンプレクスによる個人的なものだと考えるのは短絡に過ぎる。プルーストは精神的な快楽というものの本質が聖なるものを汚すことにあるということ、男の女への愛の根底には母性崇拝があるということを冷静に見据えていたに違いないと私は考える。なぜならプルーストはエディップ・コンプレクスや同性愛といった自己の性癖を個別 性にとどめるような主体的な、凡庸な作家ではないからだ。自己を客体化し、個別 的なものを掘り下げながら普遍性を目指すことそが文学であると考えていたのがプルーストであり、その目論見の成否は「失われた時を求めて」を読んでゆけば明らかである。 ∵ コンブレーでの記憶がしばらく語られた後、《私》の位置は再び冒頭に戻り「記憶」についての考察が再開される。ここは有名な「プチット・マドレーヌ」の挿話である。 《私》は成長しパリで生活している。コンブレーについての記憶は就寝劇以外もはや失われてしまった。そんなある日、出先から帰宅した《私》は母から紅茶とマドレーヌ菓子を出してもらう。マドレーヌを浸した紅茶を一口飲んだ彼はえもいわれぬ 不思議な感覚に襲われる。それは原因のわからない素晴らしい快楽である。その原因を探ろうと、彼は二口目を飲む。しかし、そこには一口目以上のものは見出されない。三口目は二口目よりも少し劣ったものしか彼にもたらさない。 そうして《私》は紅茶に頼るのをやめ、最初の一口を飲んだ瞬間に思考をさかのぼらせて内省する。その努力を十回 ほど繰り返すがどうもうまくいかない。しかし、突如として彼に回想が上ってくる。その味覚はコンブレーで日曜日の朝、レオニ叔母におはようを言いに行くと出してくれる菩提樹のお茶に浸したマドレーヌの味だったのである。 その味覚を思い出した途端、《私》は次のようにレオニ叔母の部屋を鮮やかに思いだすのである。 水を満たした陶器の鉢に小さな紙切れを浸して日本人が楽しむ遊びで、それまで何かはっきりしなかったその紙切れが、水に浸けられた途端に、のび、まるくなり、いろづき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、スワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の妖精、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住い、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。 《私》は時間と空間を自由自在に行き来し、物語を再びコンブレーに戻す。 コンブレーはその中心に教会がある宗教的、神秘的な町である。その教会にあるタピスリーには、エステル(ペルシア王アハシュロスの妃となったユダヤの婦人)が王妃の冠をいただく絵柄が描かれている。古い言い伝えによると、アハシュロス王にはあるフランス王の顔立ちが与えられ、エステルにはそのフランス王が恋をしたゲルマント家の一婦人の顔立ちが与えられているというのである。そして教会のステンドグラスの隅には昔のゲルマント領主悪公ジルベールをあらわしているものがあり、その祖先は《私》が昔幻灯で見た『黄金伝説』のジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンだというのだ。それらの伝説が《私》にゲルマント家という大貴族一族の神秘的なイメージをかりたてる。 また、コンブレーの《私》の家からは二本の散歩道がのびており、一方はスワン家の所有地を通 るメゼグリーズ=ラ=ヴィーヌズの方、いわゆる「スワン家の方」で、もう一方が大貴族ゲルマント家の館につづく「ゲルマントの方」である。この二つの「方」は極めて対蹠的であり、象徴的である。「ゲルマントの方」は中世の伝説から時をたどり続けてきた貴族の「歴史的時間」の方向で、「スワン家の方」は根無草的な在り方を余儀なくされてきたユダヤ人の、歴史にとどまることのできない「個人的生命の時間」の方向である。この二つの方向の空間的・概念的断絶は以下に引く一文にうまく表現されている。 私は、その二つをへだてている間隔に、キロメートルで測られる距離以上のもの、その二つを考える私の頭脳の二つの部分の間にある距離、二つを単にへだてるだけでなく、ひきはなして別 の面に置くあの精神の内部の距離の一つを設けるのであった。そしてその境界はいっそう絶対的なものになった、というのは、おなじ日の、おなじ散歩に、二つの方に出かけたことは決してなく、あるときはメゼグリーズの方へ、またあるときはゲルマントの方へ行ったそんな私たちの習慣が、その二つをたがいに遠くへ引き離し、たがいに不可知の状態に置き、別 々の午後という、双方の間に流通のない、封じられたつぼとつぼとのなかに、その二つをいわばとじこめていたからであった。 しかしプルーストは「失われた時を求めて」の最終章で、全く断絶されたこの二つの「方」をあっとおどろく方法で統一させてしまうのである。 ∵ スワンが結婚して以来、《私》の家人はスワン家の方には散歩に出掛けなかった。なぜなら彼の妻オデットは以前高級娼婦であったといういかがわしい経歴を持つ女性だったからだ。スワン婦人とその娘ジルベルトはコンブレーではスキャンダラスな目で見られていた。 ある日、スワンの妻と娘がランスに発つというので、《私》の祖父と父は《私》を連れてスワン家の方へ散歩に出かける。サンザシの花の香りに恍惚としながらも、《私》は祖父と父の見当が外れてスワンとその娘に出くわしたりしないかと密かに考える。(《私》の敬愛する作家ベルゴットはスワンの友人で、スワンの娘は彼と親しく付き合う権利を持っている。そんな彼女と知りあいになって、もし軽蔑されるようなことがあってはどうしようと彼は恐れるが、だからこそ彼女との出会いが彼には魅力にあふれて感じられるのだ。つまりそれは「禁忌と快楽」の原理である) そして散歩中に、《私》は赤茶けたブロンドの少女が自分たちを見ているのに気づく。その少女は男連れの夫人から「ジルベルト早くいらっしゃい」と呼ばれる。 彼らはジルベルトとオデット、そしてスワンの友人のシャルリュス男爵-「失われた時を求めて」後半の最も重要な登場人物の一人-だった。祖父達はシャルリュス男爵がオデットの情人だと思っているのでスワンを気の毒がるが、実はそうではない。シャルリュス男爵という人物の核心は第四篇「ソドムとゴモラ」で明らかにされる。 また、スワン家の方にはヴァントゥイユという音楽家の家があり、彼はさえない老いぼれの音楽家としてコンブレーの人々から哀れまれている。後年、ヴァントゥイユが死んでから、《私》はヴァントゥイユの家の開け放たれた窓の中で、ヴァントゥイユの娘とその女友達が亡き父の写 真にむかって口汚い言葉を浴びせながら交情している場面を目撃する。(これを最初に、《私》は以後さまざまな同性愛の現場を目撃することになる。なおヴァントゥイユはこの小説でもっとも重要な役割をする芸術家の一人である) 一方、ゲルマントの方に関して《私》は教会や伝説の印象から「崇高なもの」、「神秘的なもの」といったイメージを膨らませるが、ゲルマント公爵夫人を教会で見かけた彼は、彼女が単なる生身の人間に過ぎないことに幻滅してしまう。(認識される存在それ自体と認識主体がそれに対してもつイメージとのずれ-プルーストの描く恋愛には常にその要素が含まれている。《私》のジルベルトへの恋、アルベルチーヌへの恋、そして本篇第二部の「スワンの恋」にも) 第二部 スワンの恋 「失われた時を求めて」は全編にわたり一人称によって語られる小説であるが、この「スワンの恋」だけは三人称で語られる。《私》が生まれる以前の社交界でのスワンの恋が伝聞形式のような形で描かれるのである。(この挿話は恋愛小説としての「失われた時を求めて」のミニチュアとして有名な部分である) ヴェルデュラン夫妻はサロンを主催する成り金のブルジョワジーである。彼女は貴族には相手にされないので、貴族達のことを「やりきれない連中」と呼んで軽蔑したふりをしている。彼女のサロンの党員には「みんなをどっと吹き出させるような下世話な駄 洒落」を「ぶっぱなす」コタール医師とその夫人や、大学教授のブリショ、ムッシュー・ピッシュというあだ名の画家や若いピアニスト、そして、「裏社交界」の女性(高級娼婦)オデット・ド・クレシーらがいる。 当時社交会でもてはやされていたスワンは、ある日劇場で友人にオデットを紹介されるが、彼女はスワンの嗜好には合わぬ 女性であった。だが、オデットはスワンの美術コレクションを見せてもらうという名目で、スワンの家-パリの-に通 いはじめる。 女好きで、階層の違う女に興味を持つという性癖のあるスワンは、少しづつオデットと交際を深め、しまいには自分が出入りしている上流社交界より数段格の落ちるヴェルデュラン夫人のサロンに通 いはじめる始末である。オデットに紹介されて初めてヴェルデュラン夫人のサロンに足を運んだスワンは、そこで、あるピアノ・ソナタを耳にする。そのソナタはコンブレーのさえない作曲家ヴァントゥイユの作品であり-後に《私》もヴェルデュラン夫人のサロンで耳にすることになる-「失われた時を求めて」において極めて重要な役割をもつ音楽である。(ヴァントゥイユの音楽の役割とプルーストの芸術観に関しては、第五篇「囚われの女」で考察したい。) それ以降スワンがヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと会うたびにヴァントゥイユのソナタが演奏され、その曲は二人にとっての「恋の国歌」となる。しかし、まだ二人にとっての恋愛が本格的に始まったわけではなかった。 ある日、スワンがオデットの家にお茶を飲みに訪れたとき、彼はオデットがサンドロ・ディ・マリアーノ(ボッティチェッリ)作のシスティナ礼拝堂の壁画「エテロの娘チッポラ」に似ていることに気づく。美術に造詣の深いスワンはそのことに深い感興を覚え、チッポラのイメージをオデットに重ね合わせ始めるのである。そこからスワンの狂おしい恋が始まる。 オデットのそばにいるときでも、一人で彼女のことを思っているときでも、彼はつねに彼女の顔やからだにその壁画の断片をさがし求めた。なるほど、彼がフィレンツェ派の傑作にとらわれたのは、彼女のなかにそれを見出したからにすぎなかったが、それにしても、この類似によって彼は彼女にもまた美しさを認め、彼女をいっそう貴重なものに思ったのだ。 この一文は、スワンのオデットに対する第一印象である「横顔がとがりすぎ、肌は弱々しすぎ、…」という一文とはじつに対蹠的である。いわば、その一文がオデットそれ自体についての客観的描写 であり、この一文は主観者としてのスワンがオデットに投影する「映像」の描写 であると考えられよう。(スワンはこの挿話の最後にそのずれに気付き、大きく失望するのである) スワンはこのようにしてオデットに恋をしてゆくのであるが、自分の嗜好に合わぬ 女にイメージを投影して愛するというのは「失われた時を求めて」の《私》の恋愛のあり方にも共通 しており、この小説の一つのテーマである。また、これは小説であるから「自分の嗜好に合わぬ 女」というように解りやすく描かれているが、恋愛というものは自分の外側からやって来るものではなく、自己の内なるイメージやロマンチシズムを相手に投げかけるものであるというのは普遍的な真理であることにはちがいない。凡庸な恋愛小説が外面 的な恋愛事件の描写にとどまるのに対し、優れた恋愛小説はこの「恋愛の本質」をきっちりと押さえているものである。そのなかでも「失われた時を求めて」が特に優れている点は、それが恋愛の問題にとどまらず認識論的なテーマにまで掘り下げられているところにある。(本篇第三部「土地の名、-名」にて詳しく考察) ∵ スワンの心は完全にオデットに占められるようになり、ヴェルデュラン夫人のサロンでオデットと行き違いになった時など「まるで黄泉の国の死者の亡霊をかきわけてエウリディケを探しまわる」ようにオデットの居そうな場所をしらみつぶしに探しまわるのだった。 しかし、オデットの紹介でフォルシュヴィル伯爵がヴェルデュラン家にあらわれるようになって、状況に変化が生じる。フォルシュヴィル伯爵は貴族でありながらも俗悪な冗談が好きな軽薄な人物でたちまちヴェルデュラン夫妻の気に入り、シックなスワンは逆に疎まれだす。ヴェルデュラン夫妻はスワンを除け者にしてオデットを晩餐や旅行に招待するようになり、オデットはオデットで、浮気の疑惑を詰問するスワンを鬱陶しく思いはじめる。そして、スワンは苦しみにさいなまれる。 オデットの恋とスワンの恋はどんどんずれてゆき、スワンの苦悩はますます深まってゆく。そんなある日、スワンは久々に足を運んだサン=トゥーヴェルト侯爵夫人のサロン-ヴェルデュラン家の様なブルジョワではく本物の貴族のサロン-でヴァントゥイユの音楽を耳にする。それを聞いたとたんに彼はオデットとの日々を思い出し胸をしめつけられるが、彼の精神は徐々に音楽に結びついたオデットの記憶から離れ、音楽それ自体のすばらしさに向ってゆく。 音楽家に対して開かれている領域は、あのけちくさい七つの音の鍵盤ではなく、まだほとんど何も知られていない無限の鍵盤であることもわかっていた。その鍵盤はわずかにあちこち、鍵盤を構成する愛情、情熱、勇気、平静といった幾百万のキーのうちのいくつかが、未踏の厚い闇によってたがいに隔てられており、その各々は一つの宇宙が他の宇宙と異なるように他のキーと異なっているのであって、それらは何人かの偉大な作曲家に見出され、彼らは自分たちの見出したテーマに対応するものをわれわれのうちに目ざめさせながら、こちらの知らぬ うちに、われわれが空虚であり虚無であるとみなしている自分たちの魂の、侵入することのできない絶望的な大いなる夜が、どんな富、どんな変化を隠しているかを示してくれるのである。 このように彼は天才とその芸術に関して一つの直感をするのである。(後に第五篇「囚われの女」において、《私》もヴァントゥイユの音楽によって芸術の本質についての直感をすることになる。ここはその先駆である) ∵ スワンの心も少しづつオデットから離れだしたころ、スワンのもとに一通の匿名の手紙が届く。そこにはオデットがフォルシュヴィル伯爵やその他大勢の男達-のみならず女達-の愛人であったこと、また彼女が足しげく売春宿に出入りしていたということが書かれており、そのことをオデットに問いただすと、彼女の答えからは色々なぼろが出てくるのだった。 スワンは恋人の本性-男を渡り歩き彼らに経済的に頼りながら生きていくというのがオデットの真の姿だったのであるが-を知り衝撃を受けるが、その衝撃とともに彼の恋は急速にさめてゆく。そして、軽薄なオデットはそんなスワンをパリに残してヴェルデュラン夫妻達とともに一年がかりのヨットの旅に出てしまう。 しばらくして、スワンはフォルシュヴィル伯爵がオデットのパトロンだったことの確証をえるが、もはや彼にはなんの感情もわいてこないのだった。そして「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいとおもったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために!」という幻滅の独白とともに「スワンの恋」は終わるのである。 第三部 土地の名-、名 この「土地の名-、名」は第二篇「花咲く乙女たちのかげに」の第二部「土地の名、-土地」に対応する部分である。「土地の名、-土地」が《私》が滞在した実際のバルベック-ノルマンディーの架空の土地-での出来事について書かれた部分であるのに対し、この「土地の名-、名」は実際にそこにある土地ではなく、認識者のイメージの中にある土地、つまり自分から意味を投げ掛けるものとしての土地について書かれた部分である。 たとえば「パリ」という実在の土地の名が喚起させる「花の都」「芸術の香り高い都」といったイメージが、人々の心の中に再構築する「心のなかの都市」は、その名の通 り想像の産物であって実際には存在せぬものである。しかし、「実在の土地」と「心の中の土地」のどちらが、われわれにとって真実の土地なのだろうか?-ということをプルーストは考えるのである。 もちろん、われわれの外部に実在の土地はある。それは哲学で一つのコップの存在について考えるとき、たとえ唯識論者であっても自分の感覚器によって知覚しているその存在を「世界は人間の意識によって構築されているものだからこのコップは存在しない」とは言えぬ ようなかたちで物質的にあるのである。しかし、底のふさがった筒状のガラスでできたモノがそこにあるだけでは、われわれは「そこにコップがある」とは言えないのだ。なぜ言えないのか?-ここで一人の哲学者に登場願う。 この本の題名のパロディからも察しがつくとうり、その哲学者とはマルチン・ハイデガーである。ハイデガーの思想-あるいは現象学-はプルースト文学にこめられた哲学的なモチーフを理解するうえで非常に有用なので、そろそろこれまでの「失われた時を求めて」のストーリーに力点をおいた進行から、論に力点をおいた進行に変えようと思う。 ∵ マルチン・ハイデガー(1889~1976)はドイツの哲学者で、現象学の始祖エドムント・フッサールの弟子に当たる。彼はしばしばナチズムと結び付けられて語られ、事実、ナチスに加担するような演説や論文を残している。そのために彼の思想には暗い影がつきまとい、彼の思想は世間にまっとうに受け取られていないような感があるが、私はフランスの哲学者リオタールが『ハイデガーと「ユダヤ人」』で述べる「ナチズム加担という事実で彼の思想を相対化してはならないし、その逆もあってはならない」という見解がじつに正当なものだと思う。私はハイデガーという人物を「ニーチェの欲望論的現象学の同系列にあり、死と時間の分析によってあざやかな存在論を展開した哲学者」だと了解している。(皮肉なことにも、ユダヤ人の母をもつ文学者プルーストの文学的哲学論にナチスに関係深いハイデガーを用いることになったが、ここで私は「ユダヤとナチの統合、和解」といった悪趣味な構図を企てているのでは決してないということを断言したい。私がここで意図していることは「ユダヤ人」「ナチ」という外面 的なことに関する個別的な考察ではなく、奇しくも「文学」と「哲学」それぞれの分野で「時間と死」という同じテーマをもって人間の存在について深い考察を行った二人の、普遍的な「哲学」に関しての考察なのである) ハイデガーの主著「存在と時間」はプラトンの『ソフィステース』の引用から始まる。 「…というのは、君たちが『存在する』という言葉を使うとき、いったい君たちは何を意味するつもりなのか、それを君たちが当の昔から熟知しているのは、明らかなことだからだ。だがわれわれは、以前にはそれをわかっていると信じていたのに、今では困惑におちいっているのだ。…」(世界の名著「ハイデガー」 原佑訳) 人は日常「コップがある」とか「私がいる」といった、「存在する」という意味の言葉を何気なしに使う。しかしそもそも、その「ある」や「いる」とは一体どういうことなのか?-ハイデガーはそこから哲学を始めるのである。(その哲学への取り組みかたは、文学をただのフィクションの物語としてではなく、その存在を問題とするような「小説それ自身の存在をテーマとした小説」として考えたプルーストと非常に共通 している) もし「存在すること」の意味を深く考察せずに哲学するならば、人々はバラドクスに陥ったり、哲学の根拠をフィクションに頼ったりせねばならないことになる。実際に、それまでの近代哲学とはそのようなものだったのだ。たとえば、客観世界というものが自明のものとしてまず存在し、その中にいる人間が客観物としての世界を主観的に認識していると想定するならば、そこには「主-客の対立」、「主-客の一致」などという問題が生じる。つまり、その想定は「客観的な世界を人は完全に知りうることができるのか」といった出口のない問いに哲学者を導いたり、「人間は神の作ったものである。神は人間を間違った世界を認識するように作ったりしない。だから人間の主観は客観的な世界をまちがいなく認識することができる」といった、およそ哲学とは言えない結論に導いたりするのである。(ちなみにこの結論はあのデカルトのものである。「我思うゆえに我在り」という素晴らしい着想もこれでは台なしだ) このような出口のない主-客問題にとらわれていた近代哲学から一線を画したのが、ハイデガーの師匠フッサールに始まる現象学である。現象学に対する私の了解をごく簡単に説明するなら「完全な客観世界というものははじめからなく、世界とは主観が外にむかって投げかける意味、価値、欲望といったものによって編み上げられるものである」と考える思想だと言うことができると思う。 つまり、現象学的に「コップがある」と言うとき、原初的に「コップ」という意味をもつ存在が客観世界に客観的に存在し、その意味をわれわれが受け取ると考えるのではなくて、「底のふさがった筒状のガラスでできたモノ」に対してわれわれが「水を飲むコップという道具」という意味を投げかけることによって、コップが世界に現れると考えるのである。 たとえば、メモ用紙が飛んでしまわないように手元にあるコップをその上にのせたなら、そのコップは「水を飲むコップという道具」としてだげなく「文鎮」という意味をおびて私の世界に現れるだろう。また、マイセン焼きであったり、恋人からのプレゼントだったり、私にとって価値あるコップならそれは「宝物」として現れるだろうし、逆にどうでもいいコップなら絵を描くときの「絵の具とき」になるかもしれない。そのように「私」にとっての意味や価値、欲望の度合い(ニーチェで言う「力への意志」、ハイデガーで言う「配慮的な気遣い」)によって、一つの「底のふさがった筒状のガラスでできたモノ」はさまざまな可能性として「私」の世界に現れるのである。(しかしそれが基本的に「コップ」であるのは、それが一般 的に水を飲む道具として共通了解されているからである。つまり、「客観」とはその共通 了解にすぎないのである) 「存在と時間」でハイデガーは、存在について論ずる場合、コップのように「意味を投げ掛けられる存在=道具存在(ハイデガー)」の存在について論じても仕方がないのであって(なぜならそれは映画のスクリーンのようなものだから)、「意味を投げかける私という存在=現存在(ハイデガー)」の存在について考えねばならない-と言うのである。 「現存在」(実存やコギト-不可疑な自己の存在-のようなニュアンス)についての、死と時間の概念をもちいたハイデガーの分析は後にみることとして、ここではまず、「世界とは現存在が編み上げる意味と価値の体系である」という現象学の基本理念に照らし合わせてプルーストの文学を考察してみたい。 「失われた時を求めて」において、「意味を投げかける存在」と「意味を投げ掛けられる存在」の距離感-物理的な距離ではなく心的な距離(遠く感じる・近く感じる)-は一つの重大なテーマである。プルーストはその距離感の尺度として二つの心的条件、「記憶」と「欲望」をもちいる。 まず「記憶」の距離感であるが、それはこの小説の構成自体がその尺度になっている。今、どこにいるのかということがはっきり明かされない《私》が、過去の物語を時間を行きつ戻りつしながら語る。つまり、この小説は「記憶」が《私》の内側に作る映像としての「場所」や「時間」についての物語なので、手法的に、客観的なフィクションを描こうというものではく主観的なフィクションを描こうとするものなのである。すなはち、コンブレーが語られてているとき、《私》が実際にコンブレーにいるのではなくて《私》の意識にとってコンブレーが近くに現れているのである。(それは実際にはコンブレーにいない読者が、意識の表象において、本を読んでいる書斎よりもコンブレーに近いのに似ている) 「記憶」の距離感は必ずしも時間の遠い・近いに対応するものではなく、それが意識の表象に浮かび上がっているか、それとも忘却の底に沈んでいるかということによってうまれるのである。 この「記憶」の距離感について物語中もっとも象徴的に描かれるのが、《私》にとって「遠く」にあったコンブレーの記憶がマドレーヌ菓子の味覚によって突然「近く」に現れるというプチット・マドレーヌの挿話である。また、第七篇「見出された時」でのスプーンが食器に当たる音によって記憶がよみがえる場面 や、石段につまづいて幸福感を想起する場面も「記憶の距離感」をテーマに書かれた場面 である。 次に「欲望」の距離感であるが、これは第一篇では「スワンの恋」にうまく描かれている。(もちろん、第五篇「囚われの女」第六篇「逃げさる女」などで描かれる《私》の「欲望」の距離感の物語のほうがより優れているが、ここでは「失われた時を求めて」のミニチュアとして手ごろな「スワンの恋」をとりあげる) スワンがオデットに無関心だったころ、スワンにとって彼女はすぐに手の届くどうでもよい「近い」存在であったのに、「恋」が始まるとスワンにとって彼女は手を伸ばしても手に入れたい存在になる。そしてオデットの心が離れてゆくとともにスワンの欲望は強まり、彼女は何としても手に入れた「遠い」存在になるのである。先に引用した文をあらためて読んでいただければより明白だと思うが、「スワンの恋」はまさしくスワンのオデットに対する「欲望の距離感」の物語なのである。 また、今から紹介する「土地の名、-名」の冒頭の部分も「欲望の距離感」および「世界に意味を投げかける現存在」というテーマにおいて大変重要な場面 である。 ∵ 「土地の名、-名」の冒頭部分で《私》が語るのは、幼いころ眠れぬ夜に想像したさまざまな土地についてのイメージである。ちなみに、ここでの話法は過去の《私》が(=時間的隔たり)、想像している(=空間的隔たり)土地について語る、語っている《今の私》から二段階も隔たったものについて語るという実に面 白い構造になっている。(こういった、《私》と「物語=世界」の距離感の演出は「失われた時を求めて」の随所にちりばめられている) 病弱で空想好きの《私》は眠れぬ夜にベットで(恐らくパリの家の)、いまだ訪れぬ 有名な土地について思いをはせるのであった。《私》が思い浮かべる土地のイメージはその土地を舞台にした文学や枕詞(花の都~、百合の花の都~)や、名前の音の響きといったものと結びついた象徴的な印象である。このころの《私》にとって、欲望は土地そのものよりも「土地の名」に深く結びついている-欲望は《私》の内側にあるのである。つまり、「コップ」が「宝物」として現れるように、土地の名と結びついた欲望を「土地そのもの」に投げかけることによって、《私》にとってそれらの土地は非常に価値あるものとして現れるのである。(しかし、それは想像上で肥大したイメージとしてだけの価値なので、後に《私》が実際にその地に訪れたとき、他のイタリア、フランスの町となんら変わらぬ それらの土地に大きく失望する原因となるのである) 《私》の土地への欲望は、父が立てたイタリア旅行の計画によってより距離が縮まったかのように思えた。しかし、あまりの興奮に高熱を出した《私》は医師に以後一年間旅行を禁じられ、土地はふたたび「遠い」ものになってしまう。 それから《私》は健康のため、毎日フランソワーズ-レオニ叔母が死んでから語り手の家の召使になった-に連れられてシャンゼリゼに散歩に出掛けるにようになる。シャンゼリゼの名前は《私》の欲望になんら結びついておらず、彼にとって実にくだらない場所であった。 そんなある日、《私》は一人の少女が「ジルベルト」と呼ばれるのを耳にする。それの少女はまさしくスワンの娘のジルベルトであった。その時からシャンゼリゼは彼にとって非常に価値ある土地になり、ジルベルトと遊ぶことが彼にはなにより幸福な時間になる。しかし、気まぐれなジルベルトは《私》に優しい態度をとったかと思うと突然冷たくなったりで、《私》の心を苦しめるのだった。 |
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