手軽に飲めればいい
飲みものから

手軽に飲める
イイ飲みものへ
 
 

 身近なる故に 
 嗜好品であるということ 
 急須の湯に浸かる 
 茶葉色々 


  
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外出先で「お茶」と言う時、多くの場合、その言葉はコーヒーや紅茶を想起させます。
けれど、自宅において、茶の間において、家族の間でこの言葉を使う時、私たち日本人がイメージの第一候補にあげるのは、やはり
「日本茶」ではないでしょうか。

特に意識しなくとも、常に家にある飲み物。
生まれてこのかた、最も身近にあり続け、最も喉の乾きを潤してきてくれた飲み物。
とりたてて「〜が飲みたい」と思わない時、コンビニで無意識のうちにチョイスする無難な飲み物。
食堂でタダで出されるのが当然の飲み物…。

そのような日本茶と私たちとの関係は、 紅茶と英国人との幸福な関係と、ちょっと種類が違うようです。

一般的イメージとして、英国人と紅茶は「リラックス」「優雅な時間」などというキーワードによって、彼らのアイデンティティに関わる日常的な重要要素として結びついている様に思われます。
それに対し、私たちにとっての日本茶は、上のような「あって当然のもの」「水代わりの飲み物」という、欧米におけるミネラルウォーターのようなものとして、あるいは、逆に「茶道」という高級な儀式的なものとして、大変両極端な位置に置かれているように思います。

水代わりでもなく、茶道ほど特別でもなく、あらためて嗜好品としての「日本茶」を見たならば、なんと身近に、なんと豊かな飲み物があったのかと、この飲み物に対するいっそうの愛情と感動が深まるに違いありません。


 
 


お弁当のお供のペットボトルのお茶−というような場合は、特にあれこれと考える必要はないでしょう。味やボトルのデザイン、CMの女優、特価品…どんな動機でどの種類を選んでも、基本的に気持ち良く喉が潤いさえすればそれで事は足ります。

勿論、 そうではない場合でも、基本的には気持ち良く喉が潤えば問題はないのですが、ただ喉の渇きを潤すだけならば「水」でも良いわけで、そうではなく、わざわざ日本茶を選び、このページで提案する『お茶』という意味で「日本茶」を捉えるのならば、「喉の渇きを潤す単なる水・ドリンク」と「日本茶」がどう違うかという本質的な部分を考えなければなりません。

そこで見落としてはならない重要なことは、それが嗜好品であるということです。

そもそも「茶」は、thirst(*)を満たすための必需品としての「水」とは違い、コーヒー等と同じく生活の余剰の部分で贅沢を楽しむための「嗜好品」です。
しかし、「茶」はその身近さと、喉が渇けばとりあえず飲むという「習慣」によって、 ほとんど「嗜好品」という意味の部分が隠されてしまい、多くの場合、良くも悪くも「日常生活品」になってしまっています。

では、嗜好品とは何かというと、それは「こだわりを持たず、ケチるくらいならば嗜好しない方がマシ」なもののことであると私は考えます。

本来嗜好品は、別にそれがなくとも困らず生きてゆける「オプション」のようなものなので、ここに節約や始末などという概念は決して持ち込んではなりません。
日常生活の世界で節約して合理的にスマートに暮らし、その分、嗜好品は惜しみなく、自らの余裕に見合う範囲で高級なものを選んでじっくりと楽しむ−それが嗜好品の正しい味わい方であると私は思っています。

なればこそ、贈答品でもらった茶っ葉のストックをちびちび使ってゆくのではなく、自らお金を使っていい茶葉を楽しむか、あるいは貰い物でも、たっぷりと贅沢に葉を使い、長期保存して味が落ちる前に美味しくいただくか−。「日常生活品」のレベルから、嗜好品としてのスタンダードに復権する事こそが、「日本茶」と日本人の幸福な関係の正しい出発点であるに違いありません。


 
 身近なる故に 
 嗜好品であるということ 
 急須の湯に浸かる 
 茶葉色々 
(*)名詞−喉の渇き

 身近なる故に 
 嗜好品であるということ 
 急須の湯に浸かる 
 茶葉色々 


  
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お茶の淹れ方に自分なりの流儀と作法をもつということ、五感とイマジネーションを研ぎ澄ますということ−『coffee』のコラムに書いた「秘訣」は日本茶にもあてはまり、また、コーヒーにあっても「嗜好品である」という認識は欠かしてはならぬものです。

つまり、それらは全ての「お茶」について言えることなのですが、特に日本茶において、とりわけ重要な、絶対に注意しなければならぬ二点があります。

それは、湯の温度と蒸らしの時間です。

緑茶は湯を冷まして淹れるべし−ということは、ほとんど多くの人のわきまえておられるところでしょう。
けれども、どのくらいの温度にすれば良いか−ということになると、「私は常にこの温度で淹れている」と自信をもって言える人は少ないのではないかと思います。

それは、60度・70度、といった具体的な数値としての温度のことではありません。
自らの茶器でもって、どのように、どのくらいの時間湯を冷ませば適温になるかということをちゃんと把握し、そして、時と場合によってその匙加減を調節することが出来ているか−ということです。

玄米の入ったお茶は比較的高温の湯でサッと淹れる、玉露はかなりぬるい湯で長めの時間(さりとて長過ぎず)をかけて淹れる、などといった基本的なことを理解するのは簡単なことです。しかし、自らの茶器の大きさ、厚さから、その時々の湯の分量を適温にするため「さまし」にかけるべき時間を把握するということは、そうそう簡単なことではありません。
何故ならば、何度くらい、何秒くらい、という単位は「お茶の入れ方マニュアル」の如きオフィシャル・ルールとして「理解」すれば良いだけのことですが、自らの個別的なケースの場合、温度計などを使わず「丁度いい具合」を見出だすためには、試行錯誤の内に観察力と想像力をフルに働かせ、経験則的な尺度を自らの感覚の中に確立させねばならないからです。
(温度計などを使っても悪くないとは思いますが、結局、急須の大きさ・厚さによって、急須に注いだ後の湯の温度の変化(=蒸らすべき時間)は自らの感覚に頼るしかありませんから、計器に頼ってしまえばよいというものでもありません)


…ゆざましによって冷まされている、 あるいは、急須と湯飲みを行き来している湯に、自らの魂を込めるが如く精神を集中させて温度を推量し、「今だ!」という瞬間に茶葉を入れた急須にそれを注ぐ。
そして、茶葉とともに急須の湯に浸かるかのようなイマジネーションでもって「早過ぎず、しかし、茶葉の開ききららぬ」刹那を見計らって、急須の柄に手をかける−


ちょっとふざけた劇画の一コマのようですが、そこまで神経を行き渡らせねば、本当に美味しいお茶は淹れられぬものであると私は思っています。

 
 






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